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大同二年創建の十和田神社(出典:towadako.or.jp) |
大同二年(807)の謎という話があります。北関東から東北一円で、大同二年創建という神社が多く存在し、なかにはそれ以前から存在していたことが明確でも、同年創建と銘する神社もあると言います。他に、東北の鉱山にも大同二年開山が多いそうです。偶然にしては数が多すぎ、何があったのかを伝える資料も存在しないため、大同二年の謎と言われています。
大同年間は、806~810年。桓武天皇のあとを受けた平城天皇の治世です。桓武天皇は、長岡京遷都、平安京遷都、脱南都六宗等、強力な親政を行いました。また、四度に渡る蝦夷成敗では、本州北端まで朝廷の支配を広げました。801年、四回目の遠征では、阿弖流為(アテルイ)が坂上田村麻呂に降伏し、母である盤具公母禮(イワグノキミモレ)とともに、都に連行されます。田村麻呂は、二人を蝦夷地支配に使うことを提案しますが、結果、二人は802年に処刑されます。
翌803年、蝦夷地は、ほぼ平定されます。武力で制覇したとは言え、蝦夷は広大で、かつ部族が分散する地域ゆえ、律令体制への組み込みには時間がかかったものと思われます。各地の神社を、朝廷の体系に組み込むことも、極めて重要な取り組みだったと思われます。大同二年(807)創建の神社が多いとしても、それまでも継続的に神社の体制への組み込みが行われていたと思います。おそらく実行していったのは、比叡山を通じて朝廷の意向を受けた修験者たちだったと想像できます。その後の東北では、修験者勢力が強かったことは、よく知られています。
大同二年創建の神社が多い理由として、前年、唐から帰朝した空海との関連をあげる説がありますが、さすがに無理があります。むしろ、平城天皇が、大同元年(806)、勘解由使に替えておいた観察使が関係しているように思えます。勘解由使は、国司の引継ぎを監視する職ですが、観察使は、さらに国司の圧制から民を守る視点もあったようです。当初、六道からはじめ、翌大同二年には、東山道にも設置します。つまり、朝廷の東北に対する管理がギアアップした年と言えるのではないでしょうか。
ちなみに、平城天皇は、大同四年、病気のため嵯峨天皇に譲位し、上皇として平城京に移ります。上皇は、永年、上皇后の母である藤原薬子と情を通じており、薬子とその兄藤原仲成にそそのかされ、嵯峨天皇と対峙。東国で挙兵すべく脱出を図ったところを田村麻呂に捕らえられ、出家しました。平安の悪女と言われる薬子は服毒自殺します。いわゆる薬子の乱です。