2020年8月20日木曜日

リトル・ビッグ・ホーンの戦い

1876年6月、モンタナ州のリトル・ビッグ・ホーン川流域に、スー族、シャイアン族等のインディアン約2千人が集結し、宗教儀式サン・ダンスを行うとともに、白人との戦いに関する協議を行っていました。クレイジー・ホース、ゴール等、名だたる戦士たちも参加していました。これを察知した米国陸軍は、ギボン隊とテリー隊による挟撃作戦を計画します。テリー隊を先導したのは、ジョージ・アームストロング・カスター率いる第七騎兵隊の約700名。

攻撃予定日の前日、早くもインディアン野営地に到達したカスターは、インディアンの気の緩みを戦機と捉えます。敵の多さから慎重論を唱える副官やインディアン斥候たちの制止を振り切ったカスターは、第七騎兵隊を3隊に分け攻撃を開始します。判断の背景には、白人優位主義もあったのでしょう。インディアン側もカスターの動きを掴んでおり、先発した副官の隊は壊滅。騎兵隊の数の少なさに、より慎重になったインディアンたちは、カスター本体を包囲したうえで殲滅。カスターも戦死します。功を焦ったカスターは、自ら死地に飛び込んだと言えます。米国陸軍士官学校は、今も、リトル・ビッグ・ホーンの戦いを教訓とすべく、机上演習を行っていると聞きます。

カスターは、1839年、オハイオの鍛冶屋の息子として生まれます。ウェストポイント陸軍士官学校に合格したカスターですが、成績、素行は悪く、卒業も危ぶまれます。ところが南北戦争が勃発。繰上卒業となり任官したカスターは、戦場で目覚ましい活躍を見せます。戦時中とは言え、24歳で州兵准将となったカスターは、Boy General(少年将官)と呼ばれ、全米から脚光を浴びます。長髪に髭、自らデザインした軍服、自尊心の塊カスターは、戦場にあって、恐れ知らずの突撃を繰り返します。賞賛される一方で、無謀とも言える戦術は、部下に多数の戦死者を出しています。

戦後、軍籍を離れ政治家となりますが、政治力を使って陸軍中佐、名誉少将として復帰、インディアン戦争の前線に出ます。ここでも、穏健派の有力族長一族の虐殺、聖地への侵攻等、物議を醸しつつ、リトル・ビッグ・ホーンへと向かいました。カスターを駆り立てたものは、自尊心の強さ、過去の栄光へのこだわり、現職大統領との確執等々挙げられています。また、一説には、インディアン戦争を主導し、大統領選を狙っていたとも言われます。カスターの死後、妻リビーは、彼を英雄化するキャンペーンを展開し、成功します。インディアン抑圧を強める政府もこれを後押しした面があります。戦時の英雄は、しばしば平時の悪夢となります。
写真出典:wikipedia.com

「新世紀ロマンティクス」