2025年4月3日木曜日

助六

いなり寿司と太巻きがセットになれば、助六寿司、ないしは単に助六と呼ばれます。宗家成田屋の歌舞伎十八番の一つ「助六由縁江戸桜」に由来します。助六寿司は、助六のトレードマークである江戸紫の鉢巻きから太巻き、助六の恋人である遊女・揚巻の名前からいなり寿司、というシャレです。助六は、江戸中期に二代目市川團十郎が初演して以来、現在に至るまで、最も人気のある歌舞伎の演目であり続けています。助六は、上演時間が2時間に及ぶものの、場面転換が一切ないという一幕ものです。曾我兄弟の仇討ちをベースとする話ではありますが、決してストーリー・テリングをメインとした演目ではないということなのでしょう。

助六は、粋でいなせな江戸っ子気質を端的に現わしていると言われます。江戸の文化が凝縮されているからこそ、人気演目になったのでしょう。まずは衣装ですが、黒羽二重の小袖に紅裏、浅葱無垢の下着を一つ前にし、右巻きにした江戸紫の鉢巻という姿は、当時の色男のファッションを最も尖った形で現わしているのでしょう。ちなみに、左巻きの鉢巻きは病人用となります。青味の強い江戸紫という色は、武蔵野に自生するムラサキソウを用いて江戸で染めたもので、赤味の強い京紫に対抗する意味もあったとされます。江戸で大人気となり、江戸の産物の一つとされました。台詞も、べらんめえ調の名台詞が小気味よく繰り出されます。また、見得をはじめ所作もいちいち決まっています。出端の河東節も名物の一つです。

河東節は、浄瑠璃の一派とされ、江戸中期には吉原を中心に大流行したようです。その後、廃れはしたものの、艶やかな楽曲は見事なものです。いずれにしても、江戸の庶民は助六の格好良さに狂喜乱舞し、それぞれ真似をしたものと思われます。助六は、歌舞伎の華やかさや艶やかさを詰め込んだ、いわば江戸の庶民文化のショーケースと言えるのでしょう。”江戸三千両”という言葉がありますが、魚河岸、芝居小屋、吉原を指し、それぞれ日に千両の金が動くと言われたそうです。現在価値なら数億円ということになるのでしょう。助六の舞台は吉原の遊廓・三浦屋前となっています。助六の鉢巻きは魚河岸を象徴しているとされます。そういう意味でも、助六は、江戸文化の象徴だと言えますが、あくまでも江戸の華やかな面に限ってのことです。

人口100万、世界最大の都市だったと言われる江戸ですが、もちろん、人口統計など存在せず、あくまでの推定100万人ということです。武士だけは統計資料が残り、60万人だったようです。町人は推定で50万人以上とされます。ところが、土地は武家地が7割近くを占め、町人の多くは四畳半一間の長屋に家族で暮らしていました。江戸っ子は宵越しの金は持たないなどと言いますが、実際のところ、多くは日給仕事で宵越しの金など持てなかったようです。江戸っ子の気っぷの良さとは、将来のことなど考える余裕もないその日暮らしの生活が生んだものだったのでしょう。上質な商人文化も生まれた江戸ですが、庶民は刹那的な快楽を求め、芝居小屋、寄席、遊廓に出向き、博打や喧嘩に入れ込んでいたものと想像できます。

町人姿の助六ですが、本当は曾我兄弟の弟であり、武士です。二本差し(武士)が怖くて目刺しが食えるか、とは江戸庶民の心意気を表す言葉ですが、庶民は特権階級である武士に憧れも持っていたはずです。助六のモデルは、蔵前の米の仲介業者・大口屋暁雨という説があります。文化人でもあり、吉原の通人としても名を馳せた大商人です。助六の恋人・揚巻は吉原の花魁であり、現代なら超セレブです。庶民が会えるような人ではありません。つまり、助六は、その日暮らしの人々にとっては、憧れの存在であり、夢の塊だったわけです。少し前なら、ジュームス・ボンドに近いものがあるのでしょう。憧れとは、対象との距離の遠さを示すものでもあります。華やかな江戸文化の象徴としての助六人気は、江戸庶民の厳しい生活の裏返しでもあるのでしょう。(写真:13代目市川團十郎 出典:kabuki-bito.jp)