2025年1月31日金曜日

香の物

漬物類の商品別売上ランキングを見ると、圧倒的なキムチの人気に驚かされます。しかも大半が日本式の発酵させていない”なんちゃってキムチ”です。キムチでない代物が、キムチとして大人気というのも不思議な現象であり、実に日本的だと思います。19070年代まで、キムチは、一般的には珍味の類いだったようです。1975年に、桃屋が発酵させていない「キムチの素」を発売し、人気を博します。おそらくこれが日本式キムチのルーツなのでしょう。その後、激辛ブームで脚光を浴び、現在の大ブームは、2003年の韓流ブームをきっかけに起きたのだそうです。その際、韓国の発酵させた本当のキムチも輸入されるようになります。私は、キムチ好きですが、日本式のなんちゃってキムチは、どうも食べる気になりません。

日本で最もポピュラーな漬物といえば、沢庵なのだろうと思っていました。家庭はもとより、飲食店で出される漬物も沢庵が定番だからです。ただ、沢庵は、家庭で、そして零細な商店で生産・販売されているので、商品別売上ランキング上位には入ってこないのでしょう。そこで好きな漬物、よく買う漬物に関する業界紙のアンケートを見てみました。やはり、一番はキムチになっていました。以下、梅干し、浅漬けと続き、沢庵は4位と意外な結果でした。干した大根のぬか漬けである沢庵は、江戸初期に、臨済宗の僧侶・沢庵宗彭が考案したとされます。味の良さもさることながら、材料がどこにでもあり、製法も簡易であることから18世紀には全国に広まったようです。漬物の王様になった沢庵も、食生活の変化には勝てなかったわけです。

漬物は、食事のアクセント、箸休め、ご飯の友として、和食には欠かせない存在です。漬物の文献上の初出は天平期の木簡であり、ウリの塩漬けに関する記載があるようです。しかし、有史以前から、保存法として漬物は存在したのではないかと思われます。漬物は、香の物、あるいは香々とも呼ばれます。和食の基本形とされる”一汁三菜香の物”という言葉もあります。漬物が香の物と呼ばれるようになった経緯には、大根が深く関わっています。香木を焚いて香りを楽しむ日本の香道は平安期に確立されたといいます。香道では、香りを嗅ぐことを聞くといいます。香道には、香りを聞き楽しむ聞香、香りを当てる組香がありますが、いずれでも別な香りを聞く前に、大根を口にして残り香を消したものだそうです。大根には消臭作用があるとされるからです。

しかし、大根も年中あるわけではありません。そこで、塩付けした大根が使われたものと思われます。沢庵を使ったという話もありますが、時代的にズレがあります。いずれにしても、香道で用いられたことから漬物は香の物と呼ばれるようになったようです。香の物は、漬物を上品に言う場合に使われているように思います。香々やお香々は、香の物の女性言葉なのではないかと思います。祖母がよくお香々と言っていたのを覚えています。また、漬物をお新香と呼ぶことがありますが、本来、これは浅漬けを指す言葉でした。ただ、現代では、漬物全般を呼ぶことが多く、居酒屋などでは、お新香と言えば、漬物の盛り合わせが出てきます。なお、関西では、香の物と言えば、いまでも大根の漬物、特に沢庵を指すようです。

ちなみに、定食や丼物に添えられる沢庵は、二切れが相場です。これは、なにもケチっているのではなく、江戸期の風習が残っているからです。武士の町・江戸では、一切れは”人切れ”は殺人、三切れは”身切れ”で切腹をイメージさせるため、二切れが標準となったのだそうです。しかし、これはあくまでも江戸の話であって、関西では三切れが多いと聞きます。三は、仏・法・僧の三宝につながり縁起が良いとされるからなのだそうです。日本人は、とかく三・五・七を良い数とする傾向があるので、関西の三切れは落ち着きがいいように思います。江戸の伝統とは言え、二切れは、いかにもケチった印象があります。それもあってか、現代では、二切れの沢庵に、他の漬物も添えて出す店が多いように思います。(写真出典:delishkitchen.tv)

2025年1月29日水曜日

ブリガム・ヤング

学生時代、札幌の住宅街で、よくモルモン教のミッション(宣教師)をみかけたものです。決まって白人の若い男性二人組でした。モルモン教では、若者たちが、2年間程度、宣教の旅に出ることが推奨されていると聞きます。友人が、アパートに訪ねてきたミッションを、つい部屋に上げてしまったことがありました。その後、ミッションは何度も訪ねてきて、一緒に聖書を読み、賛美歌を歌うようになったというのです。断り切れずに、困っていると言うので、仏教徒の親からこっぴどく怒られたと言って、二度と部屋に入れるな、とアドヴァイスしました。そのとおりにしたら、来なくなったと言っていました。モルモン教徒にとって他の宗教・宗派は邪教のはずですが、他宗教であっても信仰自体は尊重するということなのでしょう。

末日聖徒イエス・キリスト教会、いわゆるモルモン教は、1830年、ジョセフ・スミス・ジュニアによってNY州で創設されています。神の啓示を受けたというジョセフ・スミス・ジュニアは、原始キリスト教の復活を目指します。非三位一体、キリストの再臨、千年王国といった、いわば原理主義を掲げますが、当然、カソリックやプロテスタントからは異端との烙印が押されます。一夫多妻制への批判もあって激しい迫害を受け、また、教祖が共同体(シオン)建設を目指したこともあり、モルモン教徒たちは、西へ西へと向かいます。時は、まさに西部開拓時代。モルモン教徒の西進は、アメリカのフロンティアに重なります。オハイオ、イリノイと拠点を移したジョセフ・スミス・ジュニアは、1844年、イリノイ州カーセージの刑務所で暴徒たちに殺害されます。

後継者を巡って争いが起きたようですが、大多数の支持を得て二代目大管長に選ばれたのが、ブリガム・ヤングでした。イリノイでの住民との対立が激化したため、ヤングは、信者をネブラスカ、そして現在のユタ州へと導きます。当時のユタは、複数のインディアン種族の領地であり、メキシコも領有を主張していました。つまり、合衆国の外だったわけです。ヤングは、ここをシオンの地と定め、自前の民兵組織を使って、インディアンや入植者、時には騎兵隊と戦います。米墨戦争の結果、ユタがアメリカ領になると、ヤングは請願運動の末、ユタ準州の設立にこぎつけ、自ら初代の知事に就任します。ヤングの、自らが信じるものを獲得するためには手段を選ばないという激しさがモルモン教の現在を作ったと言えるのでしょう。

ヤングのアグレッシブさが大事件を引き起こします。1857年に発生したマウンテン・メドウズの虐殺です。カリフォルニア入植を目指す幌馬車隊120名が、モルモン教徒の民兵組織ノーブー軍団に虐殺されます。背景には、教徒たちのマス・ヒステリアがあったようです。当時、連邦政府は、準州における政教一体型の自治を巡ってヤングと対立しており、連邦軍派遣が決定されます。教徒たちは虐殺を恐れ、極度の緊張状態にありました。幌馬車隊がモルモン教に対して敵対的だという噂が流れると、民兵たちは過敏に反応します。民兵は、インディアンによる襲撃を偽装し、かつ襲撃にはパイユート族も参加させています。事件後、1人が死刑、他に8名が有罪判決を受けますが、ブリガム・ヤングの関与は立証できませんでした。この点には今も議論があるようです。結果的に、ヤングは知事を降り、非モルモン教徒が後任となります。

すべての宗教は、その始まりにおいては新興宗教であり、迫害を受けるものだと思います。他を否定する一神教の場合は、なおさらです。迫害は神の与えた試練と理解されるのでしょう。リーダーは、信徒を団結させ、迫害との厳しい戦いを勝ち抜き、教団を拡大していくことになります。明らかにブリガム・ヤングもその一人だと言えます。モルモン教は、アメリカ国内外に1,700万人の信徒を持つ世界宗教になっています。ヤングの苛烈さがなければ実現しなかった偉業とも言えます。Netflixのミニ・シリーズ「アメリカ、夜明けの刻」を見ました。モルモン教に関わる史実を巧みに織り込み、アメリカのフロンティアを描いた作品です。モルモン教の教義に関しては不案内ですが、教団の成り立ちがアメリカの歴史と酷似していることが印象に残りました。(写真:「アメリカ、夜明けの刻」出典:filmarks.com)

2025年1月27日月曜日

壺算

江戸期の水瓶
最もよく知られた古典落語の一つに「時そば」があります。一杯16文の夜鷹蕎麦を食べた客が、蕎麦をほめあげた後、一文銭を数えながら勘定を払います。ななつ、やっつと数えたところで、「親父、今、何時だ?」と聞くと、店主は「へい、ここのつです」と答えます。客は、すかさず、とお、じゅういちと続け、結果、一文誤魔化すという悪さが噺のベースになっています。もっと巧妙な詐欺の噺が古典落語「壺算」に登場します。大好きな噺です。二荷入りの水瓶を買うことになった男は、買い物上手の兄貴に一緒に行ってもらうことにします。二荷とは聞き慣れない単位ですが、一荷は、天秤棒の前と後ろの桶いっぱいの水の量を指し、約50Lになります。二荷は、その倍ですから約100Lの水ということになります。

瀬戸物屋についた兄貴は、1円15銭の一荷入りの水瓶を、言葉巧みに1円に値切って買います。荷造りしてもらった瓶を担いで店を出ると、町内を一回りして、また店に戻ります。兄貴は、店主に二荷入りの水瓶に換えてくれと言います。二荷入りだから2円だろ、さっき1円払って、この水瓶を1円でひきとってもらえば、あわせてちょうど2円だ、勘定はそれでいいな、と言って二荷入りの水瓶を手に入れます。納得できない店主ですが、兄貴に言いくるめられてしまいます。兄貴のテンポの良い語り口と、店主の戸惑った様子の使い分けが小気味よい、実に良く出来た噺です。もとは18世紀に出版された笑話集「開口新語」のなかの一編を落語に仕立てた上方の演目だったようです。

「開口新語」は中国の笑話集を和訳したものですから、大本は中国ということになります。実は、アメリカにも似たような話があります。有名なのは、”Missing Dollar Riddle”というなぞなぞです。3人の客がホテルで1部屋30ドルの部屋に泊まることにして、一人10ドルづつ払います。支配人は、その部屋が25ドルだったことに気付き、ボーイに5ドル返金するように言います。5ドルだと3人で割り切れないことに気付いたボーイは、ちゃっかり2ドルを懐に入れて、3ドルを返金します。客は一人9ドル払ったことになり合計は27ドル、ボーイがくすねたのが2ドル、合算すると29ドル。1ドルはどこへ行ったのか?というなぞなぞです。なぞなぞというよりも数学のようでもあります。

様々な説明の仕方があると思いますが、本来の客一人の支払いは25/3であり、ボーイがくすねた2ドルを加えると27/3になります。そこにボーイの2ドルを二重に合算するので1ドルあわなくなるわけです。よくできた話です。このなぞなぞは、1930年頃から知られるようになったのだそうですが、18世紀には、原型となるいくつかのパターンが登場していたようです。その一つは、店に100ドルと200ドルの宝石箱が売ってあり、ある男が悩んだ末に100ドルの箱を買います。しかし、やはり200ドルの箱が欲しくなった男は、店に戻り、さっき払った100ドルとこの箱の返品でちょうど200ドルになると言い切って、まんまと200ドルの宝石箱を手に入れます。壺算とまったく同じ話です。これも中国から渡った話なのかもしれません。

水瓶の場合も、宝石箱の場合も、店主は何か変だと気付いていたのでしょうが、何が問題なのかをうまく説明できません。その間に、兄貴や客は店を後にするわけです。Missing Dollarでは、そのうまく説明できないところをなぞなぞに仕立てています。常識的に考えれば分かる話ですが、複式簿記の発想があれば、より明解なのだと思います。複式簿記は、15世紀のヴェネツイアで生まれたとされます。原因と結果が記載され、貸借平均の原理に基づき記帳されます。水瓶の話も、宝石箱の話も、複式簿記が一般化する頃に生まれた笑い話なのかもしれません。ちなみに、時そばでは、やりとりを見ていた江戸っ子が、これを真似します。ななつ、やっつ、今何時だいと聞くと、店主が「へい、よっつです」と答え、いつつ、むっつと続けることになり、余計に勘定を払ってしまいます。(写真出典:gakken.jp)

2025年1月25日土曜日

牛の皮一枚

カルタゴ遺跡
フェニキアの都市国家ティルスでは、父である王の死後、遺言によって兄妹の共同統治が行われます。しかし、兄は妹ディードーの夫を殺害し、彼女の命もねらいます。ディードーは家臣たちと地中海へと逃れ、アフリカ北岸にたどり着きます。土地のベルベル族の王に土地を分けてくれと頼むと、牛の皮一頭分で覆える土地ならば分け与えると言われます。ディードーは、牛の皮を細く切ってつなぎ、丘を取り囲みます。約束どおり丘を分与されたディードーは、砦を築きます。すると、丘の周りに人々が集まって街が形成されます。丘はビュルサの丘、街はカルタゴと呼ばれることになります。ベルベル族の王は賢いディードーに求婚します。しかし、夫の死に際し再婚しないと誓っていたディードーは、火の中に身を投じて死にます。

紀元前9世紀にフェニキア人が開いたカルタゴの建国神話です。古代ローマが勃興する以前、地中海の海上交易を支配していたフェニキア人の賢さと誠実さを強調する物語なのでしょう。フェニキア人は謎の民族と言われます。地中海の覇権を巡って古代ローマと三次に渡るポエニ戦争を戦ったカルタゴは、紀元前146年、ローマに敗れます。カルタゴの再興を恐れたローマは、カルタゴを完全に焼き尽くします。その際に、カルタゴ、そしてフェニキア人に関わる文献が多く失われ、謎の民族となったわけです。フェニキア人は、紀元前15世紀頃から現在のレバノンに都市国家を作り始め、紀元前12世紀頃から海上交易に乗り出します。フェニキア人は、優れた船、航海術、そして商業センスをもって、瞬く間に地中海交易を支配していったようです。

フェニキア人の船は、特産のレバノン杉で作られていました。レバノン杉は、大きくて丈夫で腐りにくいことから、最高の建材・船材として知られます。また、香りが良いことから、神殿などの内装にも好まれました。さらに、その精油には消毒作用や防虫作用、樹液は防虫だけでなく腐敗防止効果もあり、大いに重宝されたようです。フェニキア人は、特産のレバノン杉や貝からとれるロイヤル・パープルの染料の輸出に加え、立地を活かした東西の産物の交易で大活躍したようです。フェニキア人は、アルファベットの原型を作ったことでも知られます。ペルシャの楔形文字とエジプトのヒエログリフを簡素化した子音だけの表音文字は、フェニキア人が、広く交易していたからこそ生まれ、かつ地中海沿岸に広まったと言えます。

紀元前9~8世紀以降、フェニキアは、アッシリア、新バビロニア、ペルシャに支配されますが、交易は続けていたようです。ただ、紀元前4世紀、アレキサンダー大王に滅ぼされ、カルタゴはじめ北アフリカとイベリア半島の植民都市だけが残ります。西地中海の覇権を固めていったカルタゴは、紀元前6世紀から、重要拠点であるシチリアの領有を巡って、永らくギリシャ、およびギリシャ系シチリア人と戦います。紀元前3世紀に起こったローマとのポエニ戦争も、シチリアの領有を巡る戦いから始まっています。海戦に優れたカルタゴと陸の戦いに強いローマは好対照でした。アルプス越えで知られるカルタゴのハンニバル・バルカは、17年間に渡ってイタリア半島を転戦し、ローマを大いに苦しめます。しかし、ハンニバルは勝ちきれませんでした。

最終的にカルタゴはローマの大軍に包囲されますが、ビュルサの丘を中心に要塞化された街は3年間耐え抜いたとされます。灰燼に帰したカルタゴとともに、フェニキア人も霧散します。いかに強大とはいえ商人国家カルタゴは、市民軍を有する軍事大国ローマには及ばなかったということなのでしょう。しかし、同じく商人国家と言えるヴェネツイアは千年の栄華を誇りました。その違いは何だったのか気になるところです。軍事的には、海軍力が強く陸上兵力は傭兵という点はよく似ていると思います。また、政治的にも、貴族や有力者による共和制という面もよく似ています。ただ、カルタゴの首班であるスーフェースは1年任期であり、ヴェネツイアのドージェは終身制でした。つまり、カルタゴの政治は突出したリーダーを好まない内向きな体制であり、ヴェネツイアは政治や外交におけるリーダーシップの重要性を知っていたと言えるのでしょう。(写真出典:worldheritage-mania.com)

2025年1月23日木曜日

へぎそば

名古屋は、生そば不毛の地であり、大都市にも関わらず、サラリーマンの味方である立ち食い蕎麦屋もありません。もちろん、きしめん王国だからです。実は、新潟も、ある意味、生そば不毛の地と言えます。新潟名物の一つがへぎそばであり、街には蕎麦屋がそこそこあります。ただ、そこで出されるのはへぎそばであり、生蕎麦(十割)も、つなぎに小麦粉を使う外一割も、二八も、ほぼ存在しません。へぎそばは美味しいのですが、それが続くと無性に普通の蕎麦が食べたくなります。ところが、なかなか食べられないわけです。そういう意味において、生そば不毛の地だと思うわけです。

へぎそばは、つなぎに布海苔を使ったコシが強くのどごしの良い蕎麦です。一口大にまとめたそばを、へぎ(片木)と呼ばれる木製の器に盛り付けて食べることからへぎそばと呼ばれます。へぎそばは、大正年間に創業した十日町の小嶋屋総本店が発祥とされます。十日町は、信濃川とその河岸段丘で構成される盆地にあります。国宝・火焔型土器が出土したことでも知られ、縄文時代から人々の営みが行われてきた古い歴史を持ちます。また、十日町は織物の町でもあり、越後縮や十日町絣で知られます。町では、織物の糸を張るために古くから布海苔が使われており、それがへぎそば誕生につながりました。また、一口大にまとめる手繰りは、おかぜと呼ばれる絹糸の束を模しているのだそうです。へぎそばは、織物から生まれたわけです。

小嶋屋という屋号を持つへぎそば屋は、小嶋屋総本家、越後長岡小嶋屋、越後十日町小嶋屋と3軒が存在します。それぞれ独立した会社ですが、いずれも小嶋屋の創業者の子供たちの経営する店です。好みもあるとは思いますが、私は、どの店も美味しいと思います。へぎそば屋は、小嶋屋以外にも多くありますが、コシの強さがそれぞれ異なっており、面白いと思います。また、十日町の他にも、小千谷縮で有名な小千谷もへぎそばのメッカの一つとなっています。へぎそばの薬味も、なかなか独特だと言えます。かつてワサビが採れなかったことから、カラシが使われてきたようです。カラシは、直接、そばに付けて食べます。近年は、ワサビも出されますが、土地の人はカラシを好みます。慣れの問題でしょうが、私はワサビの方がしっくりきます。

アサツキの球根も、へぎそばに独特な薬味です。らっきょうによく似ていますが、植物的にはチャイブの一種なのだそうです。ちょっとした辛味がクセになります。アサツキは、つゆに入れるのではなく、そのままかじります。沖縄の島らっきょうのようでもあり、酒のつまみにも適しています。ただ、不思議だと思うのは、アサツキの球根は、へぎそば屋でしか見たことがありません。また、へぎそばの付け合わせに欠かせないと思うのが、舞茸の天ぷらです。ごく普通の天ぷらそば、あるいは山菜の天ぷら盛り合わせでも良いのですが、どうも舞茸の天ぷらを合わせたくなります。新潟の中越地方は、南魚沼の雪国まいたけはじめ、舞茸の生産が盛んな土地でもあります。中越の立派で味の濃い舞茸の天ぷらは絶品だと思います。

十日町、津南あたりは”妻有(つまり)地方”とも呼ばれます。中越地方の南端であり、山深い土地柄です。妻有とは妙な地名ですが、どん詰まりという意味からそう呼ばれてきたようです。2000年から、妻有地方を舞台に、3年に一度、”大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ”が開催されています。世界最大級の国際芸術祭と言われています。数年前に行きましたが、妻有地方に点在する全ての作品を観ることは困難です。ツアーに参加して主な作品だけ観ましたが、それでも一日がかりでした。この成功がきっかけとなり、現在では、瀬戸内トリエンナーレはじめ、多くの芸術祭が開催されるようになりました。魚沼産こしひかりと大地の芸術祭は名が知られていますが、へぎそばも、もっと有名になっていいように思います。(写真出典:furusato-tax.jp)

2025年1月21日火曜日

八岐大蛇

たたら
日本の古代神話のなかで、スサノオの八岐大蛇(やまたのおろち)退治は、最もよく知られた話の一つだと思います。舞台は出雲の山中です。出雲の神話といえば、大国主神を主人公とする因幡の白兎、国譲りも有名です。スサノオは、大国主神の6代前の先祖となります。スサノオは、国産み神話で知られるイサナギとイザナミの子供であり、天照大神(あまてらすおおかみ)の弟です。スサノオが高天原(たかまがはら、天上界)で粗暴をはたらいために、天照大神は天岩戸に隠れ、スサノオ自身は高天原から追放されます。スサノオは、出雲の鳥髪山(現在の船通山)に降り立ったとされます。スサノオは山の麓で、嘆き悲しんでいる老夫婦に出会います。

夫婦の8人の娘たちは、毎年一人ずつ、八頭八尾の巨大な八岐大蛇に食べられており、残る櫛名田比売(くしなだひめ)も食べられるのではないかと恐れて泣いていたのでした。スサノオは、娘を嫁にもらうことを条件におろち退治を申し出ます。おろちに強い酒を飲ませ、酔ったところを襲ったスサノオは、おろちを切り刻みます。その尾から出てきたのが天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、いわゆる草薙剣であり、スサノオはこれを天照大神に差し出し、三種の神器の一つになります。現在、天叢雲剣は熱田神宮に保存されています。神話・伝承に登場する龍や蛇は、おおむね河川を象徴し、その退治とは治水を意味するとされます。おろち伝説では、簸川(ひかわ、現在の斐伊川)がこれに相当するといわれます。

ただ、おろちは、河川ではなく、たたら製鉄を象徴しているという説があります。たたらとは、大きな鞴(ふいご)を意味します。たたら製鉄は、主に砂鉄を原料に、粘土で作った炉で木炭を用いて低温還元し、高純度の鉄を生産する古来の技術です。たたら製鉄は既に廃れていますが、日本刀の原材料となる玉鋼だけは、現在もこの製法で生産されています。古代の製鉄は、原料を朝鮮半島に依存していましたが、簸川流域では砂鉄がとれ、たたら製鉄が行われていたようです。八岐大蛇の八頭八尾は流域に点在するたたら製鉄所、赤く燃える目はたたらの火、背中の樹木や苔はたたらが山中にあること、そして何よりも天叢雲剣がたたら製鉄を象徴しているというわけです。古代における鉄の重要性からして納得できる話です。

ただ、気なるのは、古事記の”高志之八俣遠呂智”という表記と娘が毎年食われるという話です。高志とは越であり、北陸から新潟一帯を指します。越の人々が、良質な鉄を力尽くで奪いに来るということなのかもしれません。スサノオは、越の侵略を防ぎ、出雲を治めたのでしょう。スサノオの子孫たちは、製鉄をもとに出雲で栄え、大国主神の国譲りへとつながります。天孫家は、東進にあたり、最大の難敵である出雲を制し、何としてもたたらを手に入れる必要があったのでしょう。大国主神が治める葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定した天照大神は、孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を降臨させ、地上界を治めさせます。そして、その4代後の神武天皇が奈良盆地に至り、ヤマト王権を樹立します。

古代神話は、高天原、葦原中国、黄泉の国で構成されます。中つ国とは、天上界と死者の国の間にあるという意味ですが、なぜ葦原を付ける必要があったのか不思議なところです。一説によれば、天孫家は葦に付着する鉄分を集めて鉄塊を作る技術を持っていたとされます。それが天孫家の強みであり、東進は葦を求めた移動だったとも言われます。ただ、たたらのより効率的な製鉄には劣るので、武力と政治力を駆使して出雲をおさえたわけです。スサノオを天照大神の弟としたのも、国譲りの正統性を確保するためだったのかもしれません。いずれにしても、日本の古代神話は、勝者であるヤマト王権の物語であると同時に、鉄を巡る物語でもあると言えそうです。鉄を制するものは天下を制する、というわけです。(写真出典:tetsunomichi.gr.jp)

2025年1月19日日曜日

銀杏

明治神宮外苑の再開発では、神宮球場や秩父宮ラグビー場の建替えとオフィスやホテルが入居する高層ビル3棟の建設が行われます。しかし、外苑が風致地区に指定されていること、建設にあたっては樹木の伐採が必要となることから、市民の反対運動が続けられ、訴訟にもなってきました。東京都と業者の説明によれば、外苑の景観を維持する財源としてビルが必要であり、樹木は大半を移植し、緑地割合も増やすなどして景観を再現するとのこと。計画の一部見直しも行われましたが、反対運動は続きました。そして、昨年10月末、ついに樹木の伐採が始まりました。役所は手続きを全うしたと認識しているのでしょうが、反対運動に参加している知人は役所の横暴な進め方に怒っています。市民は納得していないわけです。

神宮外苑を代表する景観と言えば、絵画館前のイチョウ並木です。毎年、秋も深まり、並木道が黄色く染まると、多くの人が訪れ、季節の風物詩としてニュースにもなります。実に絵になる光景です。外苑に限らず、東京にはイチョウ並木が多くあります。イチョウは、火や害虫に強いことから寺社の境内に多く植えられ、また、大気汚染にも強いことから街路樹としても多く活用されています。あまりにも見慣れているので意外なのですが、イチョウは世界最古の現生樹種の一つとされ、”生きた化石”とも呼ばれます。2億年前には世界中に複数種が繁殖していましたが、6,000万年ほど前から姿を消し始め、現存種だけが残りました。中国に残る野生のイチョウは、国際自然保護連合 の絶滅危惧種に指定されています。 

裸子植物であるイチョウは、シダやコケと同じく、精子が卵に向かって泳ぐという生殖が行われます。1億4千万年前、裸子植物から被子植物が分化し誕生します。より進化した被子植物は早いスピードで繁殖していき、イチョウを駆逐していったようです。文献上、生き残ったイチョウが発見されたのは11世紀とされます。中国の安徽省付近でした。日本には13世紀頃に伝わったようです。中国ではイチョウをその葉から連想して鴨脚(アヒルの足)と呼びます。日本では、鴨脚の発音”イーチャオ”が転じてイチョウになったとする説があるようです。イチョウは、英語では”Ginkgo”と呼ばれます。17世紀、出島にいた医師エンゲルベルト・ケンペルが、初めてイチョウを欧州に伝えますが、その際、“銀杏(ぎんきょう)”のスペルを間違えたのだそうです。

イチョウの実である銀杏を食べるのは、中国・韓国・日本だけです。咳止めや精力剤として知られる銀杏ですが、毒性があるため食べ過ぎると中毒症状が現れ、場合によっては死に至ることもあるようです。昔から歳の数以上に食べてはいけないとも言われますが、子供は止めておいた方がよく、成人でも10個程度までなら安全とされます。考えてみると、居酒屋や焼き鳥屋で食べる際にも、せいぜい10個程度のような気がします。結果的には、理に適っているのかもしれません。また、銀杏には独特の臭みがあります。街路樹のイチョウの場合、歩道に落ちた銀杏は歩行者に踏みつけられ、その臭みがあたり一帯に拡散します。イチョウの多い丸の内も、秋の朝には銀杏の匂いが漂っています。この匂いが嫌いだという人も多くいます。

愛知県の稲沢市祖父江は銀杏の生産量日本一とされます。実家が祖父江の銀杏農家という後輩がおり、一度、立派な銀杏を頂いたことがあります。大粒の銀杏はほくほくとして美味しかったのですが、銀杏農家なる人たちの仕事が気になりました。要するに、秋に落ちた銀杏を拾うだけで農業として成り立つのなら、こんないい稼業はないと思ったわけです。実際のところは、イチョウの手入れ等も行っているようです。例えば、銀杏が収穫しやすいように、イチョウは縦に伸びるのではなく横に広がるように手が入れられていると聞きました。そして、そもそも専業の銀杏農家というものは存在せず、田んぼや畑の副業として営まれているとでした。納得です。(写真出典:enjoytokyo.jp)

2025年1月17日金曜日

「ビーキーパー」

監督:デヴィッド・エアー    2024年アメリカ

☆☆☆ー

典型的なポップ・コーン映画です。安心してポップ・コーンを頬張っていられる映画とも言えます。もはや映画を観ながらポップ・コーンを食べるというよりも、ポップ・コーンを食べるために映画を観ているような感じすらします。CIAの独立性の高い秘密組織というハリウッド伝統の設定は、リアリティを完全に無視して、あらゆる事を可能にします。制作者にとっては、夢のような設定だと思います。ただ、あまりにもありふれているので様々な味付けが必要とされます。今回は養蜂家というアイデアですが、特に蜂とアクションのからみはなく、プロットの仕掛けとして女王蜂が使われています。ただ、伏線の張り方がややくどすぎて、見え見えになってしまいました。

アクションには目新しさも、度肝を抜かれるほどの派手さもありませんが、ジェイソン・ステイサムがクールに戦うだけで、それなりに楽しめます。この人の最大の魅力は、すべて分かっています、なにせプロですから、といった風情のしたり顔だと思います。そういう意味では得がたいアクション・スターなのでしょう。デビュー作は、世界中で大ヒットを記録したガイ・リッチー監督の「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」(1998)です。よくできた脚本とスピーディでおしゃれな演出は、とても新鮮でした。映画のヒットとともにステイサムも一躍有名になりました。ちなみに、長いタイトルは銃のパーツ全てを指し、一切合切という意味の慣用句になります。ただ、複数形になっているので、2丁の拳銃を意味しています。

ステイサムは、続けてガイ・リッチー映画に出演した後、トランスポーター・シリーズやエクスペンダブルス・シリーズ、途中からですがワイルド・スピード・シリーズなどでドル箱スターとなりました。その間、欲張って芸風を広げることもなく、アクション一本槍で来ました。実に潔いとも、よくわきまえているとも言えます。ステイサムは、スタントマンを使わないことでも知られています。アクション映画は、映画の黎明期から存在し、同時にアクション・スターも長い系譜を持っています。体育会系出身のアクション・スターが多かったのですが、1990年代に入り、ブルース・ウィリスがその流れを変えます。非体育会系俳優のアクション映画進出の背景には、CGの普及があったものと思われます。

スタントマンを使わないステイサムは体育会系の正統派とも言えます。ステイサムは、高飛び込みの英国代表選手として鳴らした人のようです。その後、モデルとして活躍しながら、父親の闇商売を手伝い、裏社会も経験しています。その経験が映画にも活きているのでしょう。監督のデヴィッド・エアーは、ワイルド・スピードの脚本家として名を上げ、監督業に進出した人です。LAPDの警官たちを描いた「エンド・オブ・ウォッチ」(2012)は印象に残る映画でした。ブラッド・ピットを主演に迎えた「フューリー」(2014)、マーゴット・ロビーを大スターにした「スーサイド・スクワッド」(2016)等のヒット作でも知られます。それらに比べると本作は、明らかに劣りますが、実に手慣れたアクション映画の演出を見せています。

この手の映画では、観客が細部に疑問を感じる前に次のアクション・シーンに入り、観客がプロットに矛盾を感じる前に終わるといったスピード感が求められます。その点、デヴィッド・エアーは、さすがにツボを心得ているなと思いました。作品としての評価はそこそこですが、興行的には成功しています。ただ、大ヒットとまではいかないので、続編が作られるかどうかは、微妙なラインだと思います。女王蜂プロットは二度と使えませんが、ビーキーパーというフレームは、まだまだ活かせそうな気がします。(写真出典:eiga.com)

2025年1月15日水曜日

巻き毛のリケ

ペロー
昨年、自民党副総理だった麻生太郎氏が、外相だった上川陽子氏の見た目に関して、おばさん、美しいとはいえない等と発言し、世間を騒がせました。その際、TVでタレントが「これはルッキズムであり、大問題だ」と、したり顔で言っていました。流行り言葉を曖昧に使うマスコミの典型でもあり、外見重視の総本山のようなTV界が何を言っているのか、とも思いました。同時に、ルッキズムに関する解釈の難しさも気になりました。ルッキズムとは、外見だけで判断する行為や価値観なのでしょう。法的には、外見に基づく差別や不利益取り扱いを意味するものと考えます。上川氏が、外見を理由に外相を解任されたとすれば不当な差別です。ただ、多くの場合、ルッキズムは法的立証が難しい面もあります。

性別に関するルッキズムは、法律以前に、差別の源となる生物学的、社会学的な深い問題が横たわり、一筋縄ではいかない面があります。例えば、有性生殖は生物が獲得した種の保全に関わる基本戦略ですが、機能的観点から外見が大きな意味を持ちます。このことは否定できないとしても、外見と本質の乖離という問題に加え、生殖上の弱者の存在という問題が生まれます。マジョリティとマイノリティの存在は常に差別の温床です。弱者も含めて社会が構成される以上、人間はこの問題に苦慮してきたとも言えます。17世紀に出版されたシャルル・ペローの童話集に収められている「巻き毛のリケ」も、この問題をテーマとした異色作だと思います。ペロー童話集は、民間伝承を脚色したものですが、リケだけは異なった出自を持ちます。

童話集が、シンデレラや眠れる森の美女といった美しい女性の話ばかりではないかと批判されたペローは、劇作家コルネイユの姪という女流作家の作品を元ネタにリケを書いています。ある国に世にも醜い王子が誕生します。仙女が「この子は、とても賢いから皆に好かれる。この子に、愛した人を自分と同じくらい賢い人にできる力を与える」と言います。王子は、人気者になり、巻き毛のリケと呼ばれます。隣国に、二人の王女が生まれます。姉は世にも美しいが愚鈍でした。仙女は姉に愛した人を自分と同じくらい美しくする力を与えます。一方、妹は醜く生まれますが、賢く育ち、人気者になります。愚鈍がゆえに孤独であることを悲しんだ姉は、ある日、森でリケに出会います。

美しい姉に惹かれたリケは、1年後に私と結婚するなら、賢くしてあげますと言い、仙女が授けた力で姉を賢くします。賢くなった姉は人気者となり、多くの求婚者が現れます。1年後、森でリケと会った姉は、賢くなったがゆえにリケとの結婚を躊躇します。姉は、あなたが私と結婚したかったら、私を賢くすべきではなかったわと言います。リケが聞けば、姉はリケの容姿以外は全て好きだと答えます。だとすれば、仙女があなたに与えた力で私を美しくしなさい、とリケは言います。こうして世にも美しく賢い二人は結ばれます。しかし、ある人によれば、魔法ではなく愛情の力によって、姉の目にリケは魅力的な王子として写っただけだった、として物語は終わります。

ペロー童話集お決まりの教訓には、外見など愛情が見いだす魅力にはかなわない、と記されています。「美女と野獣」にも通じる愛情と外見に関わる話ですが、美男美女が結ばれるハッピーエンドになっていない点が味わい深いと思います。賢さと美しさという対比も面白いと思います。醜いリケと妹が人気者で、美しいが愚鈍な姉が孤独という設定は、実に独創的で示唆に富んでいます。愛情が外見に勝る魅力を見いだすこと、賢さが人を惹きつけることが語られますが、興味深いことに美しさも否定されていません。ペロー童話集は、世界初の児童文学とも言われますが、もともとはサロンで披露されたものが「韻文による物語」として出版され、後に「寓意のある昔話、またはコント集~がちょうおばさんの話」として子供も楽しめるよう散文化されています。リケは、子供向けにしては深い話だと思います。(写真出典:hugkum.sho.jp)

2025年1月13日月曜日

大祖国戦争

世の中には、軍事オタクと呼ぶべき人々がいます。得意とするジャンルは幅広く、戦略・戦術から兵器・装備オタクまでいます。NYでの仕事仲間の一人が軍事オタクでした。彼が最も取り憑かれていたのは南北戦争であり、鉛で兵士や兵器のミニチュアまで作っていました。一度、北軍兵士のミニチュアをもらいましたが、これがなかなかの出来映えで十分に店で販売できるレベルでした。ある年、彼からクリスマス・プレゼントとしてボード・ゲームをもらいました。ゲームのタイトルは”Great Patriot War(大祖国戦争)”でした。1941~1945年まで戦われた独ソ戦のうちモスクワの戦いを再現するゲームでしたが、慣れた人でも最低8~10時間かかるというので、早々に断念しました。

大祖国戦争はソヴィエト側の呼称であり、祖国が戦場となったこと、全国民が団結して祖国を守るという意味で名付けられたとされます。ナチス側ではバルバロッサ作戦と呼ばれます。独ソ戦は、第二次大戦を構成する戦争の一つではありますが、イデオロギーの戦いとも呼ばれ、特異な位置づけをされます。唯一の共産主義国家であったソヴィエトは、当時、まだ世界革命を捨てていませんでした。対して、ナチスは反共、反スラブを掲げて侵攻します。フランスを制圧したものの、英国を落とせなかったナチスは、ソヴィエトとの二正面作戦を回避すべきだったと言えますが、スラブ系を劣等民族と見下すヒトラーは、一切かまわず兵を進めます。独ソ戦の緒戦は、装備と勢いに勝るナチスの快進撃から始まります。

戦線の北部では快進撃したナチスですが、南部は広大な地域がゆえに進軍は遅れ気味でした。ナチスは、北部から兵力を南部に振り向けざるを得ませんでした。結果、ナチスのモスクワ到達は1ヶ月遅れることになります。そもそも開戦も計画より遅れており、都合2ヶ月遅れでモスクワ近郊に迫ります。ところが、その年は冬の訪れが例年よりも早く、寒冷対策が不十分だったナチスの進軍は止まってしまいます。それを待っていたかのようにソヴィエトの反撃が開始され、ナチスは後退を余儀なくされます。ナポレオンのモスクワ遠征と似た状況です。ナポレオン撤退の理由は、寒さに加え、ロシア側がモスクワに火をかけ食糧調達が困難になったためです。今回も、ソヴィエトは焦土作戦によってナチスの食糧調達を阻止しました。

その後、一進一退の攻防が続き、消耗戦の様相を呈してきます。主戦場は南部に移り、独ソ戦の分水嶺となったスターリングラード攻防戦が戦われます。ナチスは街を占拠したものの、赤軍に包囲され、降伏します。劣勢に転じたナチスは撤退をはじめ、最終的には赤軍がドイツに侵攻し、終戦を迎えます。大祖国戦争における軍人・民間の犠牲者数は、ソヴィエト側が2,000~3,000万人、ナチス側は600~1,000万人とされ、人類史上最大の犠牲者を出しています。イデオロギーの戦いと称されますが、要は、人命など意にも介さない全体主義国家同士の戦いであったこと、ヒトラーがロシアのユダヤ人とスラブ人の殲滅を意図した戦いであったことが、人類最大級の悲劇を生んだのでしょう。

その象徴的な戦いの一つがレニングラード包囲戦ということになります。ナチスは、1941年9月から3年弱に渡り、レニングラードを包囲しますが、最終的には赤軍が解放に成功します。その間、100万人を超す民間人が餓死したとされます。市民の3人に1人が餓死したことになります。その悲惨極まりない飢餓状態のなかでも、レニングラードの兵器工場は稼働し続けていました。ところが、レニングラードで製造された兵器は、レニングラードで使われることなく、ロシア各地の戦線に投入されていたと聞きます。人道無視の包囲を行ったヒトラーもさることながら、ナチスの兵力を釘付けにするためにレニングラード市民を犠牲にしたスターリンも、極悪非道と言わざるを得ません。大祖国戦争という命名は理解できるものの、全体主義特有の欺瞞をも感じさせます。(写真出典:history-maps.com)

2025年1月11日土曜日

「ホールドオーバーズ」

監督: アレクサンダー・ペイン    2023年アメリカ

☆☆☆☆

昨年のアカデミー賞で作品賞を含む5部門にノミネートされ、ダヴァイン・ジョイ・ランドルフが助演女優賞を獲得した作品です。映画館で見る機会を失したのですが、ようやく配信で見ることができました。1970年12月のニューイングランドの寄宿学校を舞台にしたコメディです。ホリディ・シーズンを迎え、学校は、生徒も教員も帰省し閑散となります。様々な事情で学校に残らざるを得なかった生徒、教員、従業員のクリスマスを描いています。”Holdover”とは残留者を意味します。いわゆるクリスマス・コメディですが、この分野はハリウッドの伝統の一つでもあります。それだけに、新味を出すことが難しいとも言えますが、本作は伝統に新たなページを刻んだと言えます。

映画の冒頭で、いきなり頭が混乱しました。どう見ても1970年前後に制作された映画にしか見えなかったからです。カメラはじめテクニカルな工夫、あるいは演出を含め、単に画面上1970年を再現するというよりも、1970年の映画そのものを再現しているように思えました。また、1980年代末、ニューイングランドに隣接する村に住んでいたので、ニューイングランドの冬、とりわけホリディ・シーズンの光景には、懐かしさがこみ上げました。それほど、空気感も時代感も、見事に伝えてくれています。映画のなかのバートン校は架空のものですが、撮影は、マサチューセッツ州に現存するいくつかの寄宿学校を使って行われたようです。また、ボストンのシーンもすべて実際の場所で撮影されています。

皆が、帰省するか旅行に出かけるホリディ・シーズンに残留することは不本意極まりないわけですが、最終的に残った生徒、教員、シェフも個々の事情を抱えています。3人は、残留の経緯ばかりではなく、それぞれが人生の深い哀しみをも抱えていました。たまたま一緒に残留したことによって、3人は哀しみを共有していくことになります。そこで生まれた連帯感は、3人の心根のやさしさも露わにしていきます。そして、最終的には、3人がそれぞれのやり方で哀しみから解放されていきます。この救いこそクリスマス・コメディのクリスマスらしいところであり、クリスマスの奇跡というわけです。実によく煉られた斬新なプロットですが、ハリウッドの伝統をしっかりと継承しているとも言えます。

アレクサンダー・ペイン監督は、とても評価の高い監督です。アカデミー賞候補の常連でもあり、脚本賞は2度も受賞しています。私は、監督の映画を一度も観たことがありません。家族をテーマとしたヒューマン・コメディは、とてもいい映画なのだろうとは思いつつも、うっすら漂う甘さが気になり見ようという気にはなりませんでした。本作で、監督のテイストが理解できたので、何本か観てみようと思いました。主演のポール・ジアマッティは、イェール大学長を父に持ち、自信もイェール卒業というインテリですが、主にバイ・プレーヤーとして、実に多くの映画に出演しています。鼻つまみ教師のいやらしさを見事に演じつつ、内面に抱える哀しみや孤独を嫌みなく表現しています。本作の演技で、アカデミー主演男優賞候補にもなています。

当時の政治や社会環境は、音楽や車と同様、あの時代の背景として描かれているだけであって、映画は政治的でも批判的でもありません。これも興味深い点だと思います。クリスマス・コメディだからと言えばそれまでですが、監督があの時代の空気に対して持っている郷愁のようなものを強く感じます。1970年代のアメリカは、ベトナムでの敗北、ニクソン・ショック、ウォーターゲート事件、景気衰退とスタグフレーション、過度な個人主義と散々な時代に入っていきます。1970年は、まだ古い価値観も残る過渡期だったように思います。そのことが、監督の郷愁につながっているのでしょう。そして、その空気感が見事に描かれている映画だと思います。(写真出典:eiga.com)

2025年1月8日水曜日

小松殿

隆盛を誇った家や一族の初代、ないしは初代に相当する人というのは、破天荒と言えるほど並外れた人物だったのでしょう。普通のことをしていたのでは、家の勃興など起こらないわけです。ただ、その一族の隆盛が永く続くかどうかは、2代目に優れた人物がいたかどうかにかかっているように思われます。例えば、藤原家の事実上の開祖ともいえる藤原不比等、室町幕府を安定させた足利義詮、江戸幕府を確立した徳川秀忠等々は、先代ほどの派手な活躍はありませんが、サスティナブルな権勢や政権の仕組みを構築した人たちです。奢る平家は久しからずと言われた平家を見てみれば、この点が実に不幸だったとも言えます。平清盛の嫡男である重盛は、とかく評判の良い人ですが、父に先立ち42歳でこの世を去っています。 

重盛は、六波羅の小松弟を居所としたことから、小松殿と呼ばれます。血気盛んな若武者時代を経て、28歳で清盛の後継者となります。平家物語における重盛は、思慮深く温厚な性格で、時に清盛や一門の行き過ぎにブレーキをかける存在として描かれています。1179年に重盛が亡くなると、後白河法皇は清盛に無断でその荘園を没収します。これに激怒した清盛は、福原から上洛し、法王を幽閉、反平家の公家たちを解任します。いわゆる治承三年の政変ですが、ここから清盛の暴走は止まらず、同時に反平家の動きも加速していくことなります。平家物語には、小松殿が生きていれば、という人々の嘆息がしばしば語られています。つまり、重盛が死んだので平家は滅亡に向かったという見方がされているとも言えます。

治承三年の政変以降、清盛は、孫である1歳の安徳天皇を践祚させ、福原遷都を強行し、南都焼討で興福寺や東大寺を灰燼に帰しています。平家物語は、こうした清盛の横暴さを際立たせるために、ことさら重盛を良識的に描いているという面もあるのでしょう。そもそも平家物語は見事な物語ではありますが、史実を忠実に反映しているわけではありません。盛者必衰という分かりやすいテーマに沿って、清盛を極悪人として描くことで名作たり得ていると言えます。例えば、殿下乗合事件についても、平家物語では、報復を命じたのは清盛とされていますが、実際は重盛だったようです。しかし、かなり脚色されているとしても、やはり重盛は良識的であったと考えられます。重盛が担った役割、置かれた立場から、それが十分に推測できるからです。

重盛の正室は、後白河院の側近である藤原成親の妹・経子であり、経子が後白河院の子である憲仁親王、後の高倉天皇の乳母に任命されたこともあり、重盛は平家と後白河院をつなぐ太いパイプとなります。清盛が既存政治体制のなかで実権を握ろうとしたため、重盛は調整役に徹せざるを得ませんでした。重盛の言葉として知られる「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」は、重盛の立場をよく表していると思います。ただ、この言葉は江戸期に頼山陽が創作したもののようです。また、重盛は、実母が正室ながら身分が低くかったため、有力な外戚を後ろ盾を持つ異母兄弟たちのなかでは孤立気味だったとされます。加えて、隠居したとはいえ、絶大な力を有する父・清盛も存在していたわけです。

つまり、小松殿は、平家一門の総領とはいえ、好き勝手はできない微妙な立場にあったわけです。このことが、良識的な人間という重盛の評判につながったのでしょう。機能面だけに着目すれば、重盛の存在が貴族政治と武家勢力を辛うじて共存させていたことになります。その重盛が死んだわけですから、両者の反目が激烈な形で噴出することは当然だったとも言えます。平家滅亡の真因は、源氏との合戦に敗れたことではなく、清盛の横暴と暴走、そして後白河院の堪忍袋の緒が切れたことなのでしょう。だとすれば、やはり小松殿の早すぎる死こそが平家最大の不幸だったと言えます。別な言い方をすれば、小松殿以外に政治家と呼べる人がいなかったことが、平家最大の弱点だったということになります。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2025年1月7日火曜日

錦玉子

私がおせちのなかで特に好むものは、お雑煮、鮭の飯寿司、こはだの粟づけ、数の子、黒豆、紅白なます、そして錦玉子です。おせちの内容は、地方によって、家庭によって異なるものでした。飯寿司も北国特有のものです。ただ、都市部の核家族を中心におせちが単品やセットで買うものに変わり、かつスーパーなど流通が発達した現在、おせちは均一化されていると思っていました。ところが、過日、大阪出身の友人に聞くと、大阪に錦玉子はないと聞き驚きました。調べて見ると、確かに錦玉子は、東京と静岡、関東の一部だけで販売されているようです。理由は江戸のものだったからと聞きましたが、どうもピンときません。

こはだの粟づけも、もとは江戸の名物でしたが、いまや全国区になっています。こはだは、出世魚であり縁起がいいわけですが、 錦玉子も同じく縁起物です。玉子の黄身部分は金糸、白身部分を銀糸に見立て、財運向上を願っているのだそうです。錦玉子という名前は、黄と白の二色から錦と語呂合わせされたと聞きます。いずれにしても、同じ縁起物であれば、錦玉子も全国に広がってもいいようなものです。そうならなかった理由は、江戸と上方の味付けの違いによるものと思われます。醤油と鰹ベースの濃い味付けが好まれる江戸では、卵料理には甘さが求められ、昆布出汁と薄口醤油の上方では、卵料理にも出汁を利かせ、塩味で仕上げることが多いからなのでしょう。

錦玉子の基本的な作り方は、茹でた卵を黄身と白身を分けて裏ごしし、甘く味付けした後、二層に重ねて蒸します。それを巻いたものが多く売られていますが、二層のままのものもあります。二層のものは市松模様に並べると美しく華やかなおせちになります。お値段は千円以下の巻物から4~5千円もする有名店の二層ものまでとピンキリです。高価な巻物の場合、断面に黄色い寿の字があしらわれているものもあります。昔から不満に思っているのですが、錦玉子は正月前にしか売られていません。おせちだからと言えば、それまでですが、通年販売してもらいたいものだと思います。さらに言えば、正月が明けると、正月用品の安売りが始まりますが、そこに錦玉子があったためしがありません。人気薄で生産が少ないということなのでしょう。

錦玉子は伊達巻きと混同されることも多々あります。伊達巻きは、魚のすり身と卵を混ぜて焼き上げます。いずれも甘い卵料理ですが、見た目は大いに異なります。伊達巻きは人気があるようで、正月前にも大量に陳列されていますし、正月明けには安売りもされています。それどころか、一部、通年販売もされています。また、例えば、小田原の鈴廣では”海のすふれ”という名前で、巻かないタイプがいつも販売されています。もはや卵料理ではなく、すり身食品というカテゴリーなのでしょう。ちなみに、伊達巻きは、仙台発祥だから伊達巻きなのではなく、おしゃれな人を指す伊達者から来ているようです。伊達者とは、朝鮮出兵のおり、伊達藩士たちが派手な出立で武者行列したことから生まれた言葉です。

鶏卵の食用が一般化したのが江戸時代とされますから、錦玉子も伊達巻きも江戸期に生まれた料理と想像できます。江戸中期に出版されたレシピ本「万宝料理秘密箱」のなかの卵料理だけをまとめたものが「卵百珍」として知られます。掲載される卵料理は100を超えると言いますから、恐らく両方とも載っているのでしょう。錦玉子は手間がかかるので、お値段が多少高めになるのでしょう。甘い卵料理は数多く存在しますし、卵を使ったお菓子ともなれば星の数ほどあります。つまり、錦玉子にはライバルが多く、値段も高めなので、販売量が少くなっているのでしょう。今年のお正月にもおいしくいただきましたが、また来年までお預けというわけです。(写真出典:jz-tamago.co.jp)

2025年1月5日日曜日

Mojo

”Mojo” という言葉は、もともとブードゥー教のお守り袋を指しますが、音楽の世界では、男性の性的能力に関するおまじない、さらにはディープ・サウスの呪術的イメージを象徴する言葉として知られます。Mojoといえば、まずはシカゴ・ブルースの父マディ・ウォーターズのヒット曲”Got My Mojo Working”(1957)が思い起こされます。彼の曲は、4曲がロックの殿堂入りしています。”Rollin' Stone”、”Hoochie Coochie Man”、”Mannish Boy”、そして”Got My Mojo Working”です。私がこの曲を初めて聴いたのは、ポール・バターフィールドのアルバムでした。”Got My Mojo Working”はブルースのスタンダードとして、プレスリーはじめ実に多くのミュージシャンがカバーしています。

”Got My Mojo Working”は、プレストン・レッド・フォスターが作曲しています。彼は、この曲以外の活動がほとんど知られていません。フォスターは、この曲をバトン・レコードに持ち込み、1956年にはアン・コールによって録音されています。この頃、アン・コールは、マディ・ウォ-ターズのツアーで前座を務めており、この曲も歌っていたようです。これを気に入ったマディ・ウォーターズが、1957年、シカゴで録音し、大ヒットにつながります。しかし、マディ・ウォーターズの曲にMojoという言葉が登場するのは、これが初めてではありません。1954年にヒットした”Hoochie Coochie Man”も呪術と性的魅力を自慢する内容であり、お守りとしてのMojoが登場します。

ミシシッピ・デルタを歌おうとすれば、Mojo的なものは避けて通れない、なぜなら黒人たちが信じていた唯一のものだからだ、とマディ・ウォーターズは語っています。Mojoバッグは、もともと中部および西アフリカで、グリグリ、あるいはジュジュなどと呼ばれており、奴隷貿易とともにアメリカに伝えられました。袋の中には、鳥の羽、動物の骨、木の根っこ、ハーブ等が入っており、魔除けとして使われました。20世紀初頭、アメリカ南部の黒人たちは、北部工業地帯へと大移動を始めます。害虫被害やミシシッピ川の大洪水を受け綿花を摘む仕事が失われたこと、第一次大戦の影響で欧州移民の流入が止まり北部の工場が人手不足に陥ったこと、そして南部の差別から逃げたいという黒人たちの思いが大移動の背景にありました。

大移動に伴い、黒人を取り巻く環境は激変するわけですが、文化面でも大きな変化が起こります。その一つとされるのがブルースの変化であり、泥臭いデルタ・ブルースは都会的に洗練されたシカゴ・ブルースへと変わっていきます。その動きを先導したのが、マディ・ウォーターズであり、シカゴ・ブルースの父とも呼ばれます。黒人の都市化とともに、ブードゥーの文化も失われていくことになります。その過程において、雇用主から身を守ることが主だったMojoバッグの意味が失われ、より下世話な性的能力を高めることへと変わった、あるいはそれだけが残ったものと思われます。都会化されたとは言え、依然、デルタ・ブルースを基礎としていたブルース・ミュージシャンの間で、その変化が一般化したことは十分に理解できます。

つまり、Mojoの意味の変化とマディ・ウォーターズの新しいブルースは、ともに大移動とその結果生まれた文化的変化を象徴しており、表裏一体を成しているとも言えるのでしょう。都市に流入した黒人たちにとって、辛い過去とは言え、南部は故郷であり、Mojoは郷愁にもつながる言葉だったのではないでしょうか。そういう意味では、ブラジル音楽のエッセンスと言われる”サウダージ”に似ている面もあるように思います。もちろん、両者は大いに異なりますが、遠いアフリカの記憶にもつながるという点において興味深いものがあります。ちなみに、ローリング・ストーンズというバンド名がマディ・ウォーターズの”Rollin' Stone”(1950)に由来することはよく知られています。この曲は、生まれながらの女好きの歌です。(写真出典:amazon.co.jp)

2025年1月3日金曜日

画商

レオ・カステリ
世界のアート市場の規模は、2010年頃に急拡大し、概ね10兆円弱の水準で推移しています。世界的に富の集中が進むなか、アートが有力な投資対象とされたこと、中国の富裕層が参入したこと、そしてネット取引の拡大が寄与しているのでしょう。アートの売買は、投資目的ばかりとは言えませんが、価格は明らかに投資市場に左右されます。将来価値を取引する市場という意味では株式によく似ていると思います。投資家と株式市場を仲介するのが株式ブローカーですが、アートの場合、収集家や投資家と作家をつなぐのは画商です。両者は、いわゆる目利きという点でも類似していますが、画商には作家を育てるという独特な文化があると思います。ここが株屋との大きな違いだと思います。

古くさい言い方になりますが、画商には”箱師”と”旗師”がいます。近年、まったく聞かなくなった言葉ですが、箱師とは自前の画廊を持っている画商のことであり、旗師は画廊を持たずに商売をする画商です。最近では、箱師をギャラリスト、旗師を美術ブローカーと呼ぶようです。作家を発掘し、育てるという役割を担っているのは主にギャラリストです。近代絵画は19世紀後半の印象派に始まるとされます。新古典派が牛耳るフランス美術アカデミーから否定された印象派を擁護し、世界に知らしめたのはポール・デュラン=リュエルとアンブロワーズ・ヴォラールという二人の画商でした。印象派は、近代絵画の幕を開けただけではなく、近代的な画商、そして近代的な美術界をも生み出したと言えるのでしょう。

その後、美術史に名を残す画商たちが活躍を始めます。オランジュリー美術館のコレクションの基礎を築いたポール・ギヨーム、”ピカソの画商”と呼ばれキュビズムを先導したダニエル・ヘンリー・カーンワイラーなどは特に著名です。そして、1950年代後半、美術界に大きな変革をもたらし、今に続く現代アートの世界を切り開いたNYの画商レオ・カステリが登場します。カステリは、1907年、当時オーストリア=ハンガリー帝国の統治下にあったトリエステに生まれています。トリエステと言えば、illyに代表されるコーヒーの町ですが、カステリの実家も老舗のコーヒー輸入業者だったようです。1935年、銀行員としてパリに赴任したカステリは、画商ルネ・ドルーアンとともに初めての画廊を開いています。

第二次世界大戦が勃発すると、ユダヤ系だったカステリはNYへと避難します。コロンビア大を卒業し、志願兵として欧州での諜報活動にも従事したカステリは、戦後、NYでキュレーター、ブローカーとして活動を開始。1957年には自身の画廊をアッパー・イーストにオープンします。翌年、ロバート・ラウシェンバーグとジャスパー・ジョーンズの個展を開いたカステリの画廊は、抽象画が主流だった現代絵画の世界に一石を投じ、以降、ポップアート、ミニマリズム、コンセプチュアルアートを世界に紹介していきます。カステリの画廊こそ現代アートの起点だったと言えるわけです。また、カステリは、それまで主流だった画家と画商の排他的な関係を打破し、他のディーラーとも連携して作品を展示・販売する方式をうち立てます。今では当たり前となったこのスタイルは、カステリ方式とも呼ばれています。

カステリは、アート市場をオープンなものに変えたわけですが、そのことも現代アートの普及に大いに貢献したものと思います。また、カステリは、作品の売れ行きに関わらず、一定期間、作家に給与を支払う方式を取り入れ、多くの作家たちを育てています。カステリは、1999年に亡くなりましたが、そのコレクションはスミソニアン協会のアメリカ美術館アーカイブに寄贈されています。なお、カステリ・ギャラリーは、今もメトロポリタン美術館近くの高級住宅街で運営されています。通りの向かいには老舗ホテルのザ・マークがあります。マークのバーで、画廊の存在を教えられましたが、さすがに現代アートの聖地にズカズカ入る勇気はありませんでした。(写真出典:emuseum.mfah.org)

2025年1月1日水曜日

乙巳

2025年は、十干の”乙”、十二支の”巳”の年にあたります。乙巳は、”きのとみ”、あるいは”いつし”と読みます。乙は、十干の2番目にあたり、誕生間もない植物の幹がまだ伸びきらずに曲がっている状態を指すとされます。陰陽五行思想で言えば、”木の陰”とされ、成長の象徴である”木”の穏やかな進展を表わします。一方、十二支の巳は6番目にあたり、植物の成長が止む、つまり極限に達した状態を表わすとされます。陰陽五行では”火の陰”とされます。陰陽五行は、十干と十二支の組合せが重視されます。乙と巳の組合せは”木生火” といって、木が燃えて火を生む相生(そうじょう)という関係になります。木をこすって火を起すわけですから理解できる関係です。

一言で乙巳の年を表わせば、再生と変化の年ということになります。蓄積されたものに火が着き一気に燃え上がるといったイメージでしょうか。過去の乙巳の年に何が起きていたのかを見ると、なかなかに興味深いものがあります。そのものズバリと言えるのが645年に起きた「乙巳(いっし)の変」ということになります。中大兄皇子と中臣鎌足が、宮中で蘇我入鹿を暗殺した事件です。風雲急を告げる東アジア情勢に対応すべく、権勢を振う蘇我氏を廃し、天皇を中心とした中央集権国家を目指したとされます。以降、大化の改新が進められ、部族国家だった日本は中央集権的な律令国家へと変わっていきます。ただ、日本書紀は、中大兄皇子と中臣鎌足の正当性を強調すべく、ことさらに蘇我氏を悪く書いているともされます。

1185年の乙巳の年には、壇ノ浦の戦いで平家が敗れています。源氏は、奢れる平氏を滅亡させ、鎌倉幕府を開くことで武家政治の時代を開きました。武家政治の始まりは平家からという説もありますが、平家の隆盛は、あくまでも貴族政治の枠内にありました。10世紀の平将門は武士の台頭を、11世紀の八幡太郎義家は武家の台頭を象徴しています。12世紀後半に至り、平家が政治の実権を握り、源氏が貴族政治を終わらせたわけです。海外を見ると、1485年、30年に渡り戦われた薔薇戦争が終結しています。封建領主であるランカスター家とヨーク家による権力闘争ですが、ランカスター系のヘンリー7世がヨーク家を破り、かつヨーク家のエリザベス王女と結婚してテューダー朝を開きます。絶対王政がここに始ったわけです。

また、日本にとって、1905年の乙巳の年は極めて重要な年でありました。ポーツマス講和条約が締結され、18ヶ月間戦われた日露戦争が終わりました。ロシアでは革命が勃発し、戦争継続が困難となります。一方、開国から40年足らずという日本の国力も戦争継続は困難な状況にありました。大国ロシアから薄氷の勝利を得た日本は、不平等条約を解消し、列強の一角を占めるに至ります。まさに極東の小国が成しえた奇跡でした。その後、日本は遅れてきた帝国主義国としての道を突き進み、軍国主義を加速させていきます。そして、日露戦争からわずか40年後、日本は敗戦国として独立を失うことになります。武家政権は、その始まりも終わりも、乙巳の年に起こった変化をきっかけにしているとも言えそうです。

2025年の乙巳の年、何が起こるのかは神のみぞ知るということになります。既に、ロシアによるウクライナ侵略、イスラエルによるガザ回廊でのジェノサイド、そして地球温暖化に伴う異常気象といった大問題が存在しており、その行方が気になります。ただ、蓄積されたものに火が着き大きな変化が起きるという陰陽五行的な視点からすれば、以上に加え、台湾を巡る中国の動向、軍事面で自信を付けた北朝鮮の動向、欧州における難民問題等も気になるところです。国際政治に関しては、トランプ新大統領の言動こそが新たな展開を生む火種になるのでしょう。また、進行する情報革命についても気になります。人類は、情報革命のスピードに対応できていないように思われます。SNSやAIが人類にもたらすものは、予期せぬ形で新たな段階を迎える可能性もあります。