2025年12月18日木曜日

演歌

藤圭子
どうも演歌は好きになれません。名曲もあれば、耳に馴染んだ曲も多いのですが、やはり苦手です。ヨナ抜き音階が嫌いというわけではありません。むしろ体に染みこんでるので、心地良く感じます。問題は、そのうら寂れた世界観です。演歌の全てではありませんが、自己憐憫的で哀愁の押し売り的な安っぽい世界が好きになれないわけです。演歌ファンにとっては、そこが最大の魅力なのだろうと思います。世間の荒波のなかで厳しい状況に置かれた人々はそれなりに存在し、また、理不尽な境遇や状況を嘆く人々も多くいるものと思います。そういう人々にとって、演歌は、まさに代弁者なのだろうと想像します。それもそのはず、演歌は、高度成長が生んだひずみに咲いた徒花ですから。

演歌のルーツは、明治期の自由民権運動で歌われた演説歌だとされます。また、大正期に大ヒットした「船頭小唄」を直接的な先祖とする説もあります。「オレは河原の枯れススキ、同じお前も枯れススキ・・・」という歌詞と暗い曲調は、関東大震災後の社会を反映しているとも言われます。しかし、まだ、この時点では演歌という言葉は存在していません。1950年代後半に入り高度成長期が訪れると、農村の労働力が都市部へと移動し始めます。そうした状況を反映して、「別れの一本杉」といった民謡調、あるいは田舎調と呼ばれる望郷の歌がヒットします。さらに工場労働者で賑わう都会の盛り場には、楽器を持って酒場を回り歌を聞かせる「流し」が登場します。流しの歌は”艶歌”と呼ばれ、北島三郎、こまどり姉妹等、メジャー・デビューする歌手も出ます。

こうした流れを受けて、1960年代中期から、村田英雄、都はるみ等がヒットを飛ばし、文壇では、竹中労、五木寛之、あるいは新左翼がエンカを一つの文化として賞賛します。そして、1969年、演歌の世界そのものとも言える暗い過去を持つ藤圭子がデビューし、歌謡界を席巻します。「演歌」という言葉が生まれ、世間に広まることにもなりました。以降、70年代、80年代は演歌全盛の時代でした。美空ひばりをはじめとする大物歌手たちも、こぞって演歌を歌うようになります。1977年に登場したカラオケが、ブームを加速させた面も大きかったと思われます。しかし、80年代後半、若者たちの人気が、ニュー・ミュージック、J-Popに流れると、演歌は急速に地盤沈下していきます。つまり、演歌は、日本の伝統ではなく、歌謡界のブームだったわけです。

市場規模は縮小したものの、演歌は、老人、労働者、地方で根強い人気を保っています。老人は懐古趣味なのでしょうが、労働者、地方での人気は、演歌の本質を語っているように思います。70年代以降、日本経済は、オイル・ショックや円高を経験しながらも、着実に成長を続け、人々は豊かさを実感するに至ります。しかし、そこにはメジャーな流れから取り残された人々が確実に存在し、演歌はその人たちに寄り添ってきたということなのでしょう。しかし、演歌は、アンチ・メジャーのプロテスト・ソングではありません。ベクトルは、あくまでも自己憐憫的です。演歌は時代の産物と言えますが、ここがしぶとい人気を保っている理由なのだと思います。その姿は、どこかアメリカのカントリー・ミュージックに通じるものがあると思えてなりません。

カントリー・ミュージックが、一定規模以上の売上を保ち続けている理由は、南部の白人農民・労働者といった明確な市場があるからだと思います。その背景には、アメリカの歴史的、人種的、宗教的分断があります。演歌の場合、分断があるとまでは言えません。そこが弱いところです。ちなみに、錦糸町駅前にセキネという演歌専門の小さなCDショップがあります。よく店先で新人演歌歌手がキャンペーンを行っています。着物を着てビール・ケースの上で歌う新人に30~40人程度の人が拍手を送っています。そのすぐ前に喫煙所がある関係で、その歌声をたまに聞くことがあります。曲自体は相も変わらぬド演歌ですが、皆、歌がうまいのには驚かされます。得てして演歌歌手は歌唱力に優れています。意図的とは思いませんが、ルックスとプロモーションで売上を伸ばす音楽界へのアンチ・テーゼのようでもあります。(写真出典:amazon.co.jp)