2025年9月6日土曜日

見返り美人

1960年代後半、切手ブームが起こります。小中学生も、皆、切手収集に熱中し、切手帳と呼ばれるストック・ブックを持ち、互いに自慢しあったものです。当時、垂涎の的だった切手の一つが、1948年に発行された「見返り美人図」 でした。浮世絵を確立したとされる菱川師宣の傑作肉筆画を記念切手にしたものです。その美しさが大人気となり、高額で取引されていました。もちろん、子供たちが入手できるような代物ではありませんでしたが、誰もが知っている有名な切手でした。後年、国立博物館で、本物の「見返り美人」を見た時には感動しました。それは、良く知っている絵の現物をついに見たといった程度の話ではなく、その美しさに恐れ入ったとでも言うべき感動でした。

その魅力は、構図と色にあるのだと思います。美人画の始まりとされるのが寛文美人図です。掛軸用に、一人の美人の立ち姿を無背景で描いており、一人立美人図とも呼ばれます。17世紀中葉に上方で生まれ、明暦の大火後の復興に沸く江戸に伝わりました。見返り美人も、寛文美人画の形式に沿っていますが、その見返りというポーズが画期的です。歩いているところを、斜め後ろから声を掛けられ、振り向いたといった風情です。寛文美人画は、代表作と言われる「縁先美人図」などのようにやや斜め正面からの全身像が特徴です。見返り美人は後ろから描くことで、着物と帯、そして女性の体型が強調されています。単純な後ろ姿ではなく、歩いている途中に振り向くで、膝が曲がり、腰がやや落ち、女性の腰の美しさも強調されています。

構図と並んで目を引くのが、艶やかな緋色の着物です。菊と桜の花の丸模様は、当時、流行した柄だったようです。帯は、濃い緑の地に丸を重ねた紋様。鶯色と言われますが、上品な若竹色のように思います。帯の結び方は、片方の端だけを輪にして、もう片方を垂らす吉弥結びとして知られます。人気女形の初代上村吉弥が流行らせた最新モードだったようです。髪形も、当時流行の長く垂らした玉結びであり、髪に挿した櫛と簪は高価な鼈甲製と言われます。つまり、例えて言うなら、ヴォーグやハーパース・バザーのファッション写真に先立つこと200年、モード雑誌の先祖だったとも言えるのでしょう。いずれにしても、着物の緋色、帯の若竹色、そして垂らした黒髪のバランスが、見返りというポーズと相まって、この艶やかな絵を構成しています。

菱川師宣は、安房国、現在の千葉県鋸南町の縫箔師の家に生まれています。江戸に出て、自身も縫箔師として生計をたてながら、狩野派や土佐派の絵を学んだようです。縫箔師とは、着物や帯などに、刺繍と金銀の箔を組み合わせて装飾を施す職人です。そもそも、師宣は、生まれも育ちもアパレル界の人だったわけです。師宣が、浮世絵の祖と言われるのは、それまで絵入本の挿絵に過ぎなかった浮世絵版画を、独立した一枚の絵として成立させたからです。当初は、仮名草子、浄瑠璃本等の挿絵、あるいは枕絵などを無署名で描いていたようですが、そのおおらかな作風が評判を呼び、ついには、観賞用の一枚の絵として墨一色で大量印刷されるようになります。こうして庶民の楽しみとしての浮世絵が誕生したわけです。

知名度も人気も高い見返り美人ですが、国宝でも、重要文化財でもありません。浮世絵は、葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」ですら国宝ではありません。大量印刷という点がネックなのだろうと思いますが、浮世絵に国宝はありません。しかし、見返り美人は肉筆です。にも関わらず、重文にすら指定されていません。師宣の他の作品のいくつかは重文指定を受けています。見返り美人が重文指定を受けていない理由としては、所詮は風俗画である、決して美人ではない、美人画にしては胴長である、等々の説もあるようです。ただ、素人目には分かりませんが、恐らく保存状態に問題があるということなのでしょう。2~3年前、東京国立博物館は、見返り美人修復プロジェクトとして寄附を募っていました。恐らく、現在、修復が進められており、遠からずうちに重要文化財指定のうえ、お披露目となるのではないでしょうか。(写真出典:tnm.jp)