2025年9月10日水曜日

甲斐姫

忍城
豊臣秀吉が天下を統一したのは、関東一円を支配した後北条家を小田原攻めで滅ぼした1590年のことです。応仁の乱以来120年以上続いた戦国時代が、ようよう終ったわけです。後北条氏の小田原城は、全長9kmに及ぶ空堀と土塁で城下町全体を囲んだ総構えで有名でした。秀吉は、22万という大軍勢をもって小田原城を囲み、石垣山一夜城を築くなどして後北条氏を圧迫しますが、その攻略には3ヶ月を要しています。小田原攻めを行う一方で、秀吉は、関東に点在する北条側の22の城攻めも行ってます。その一つが忍(おし)城でした。室町中期、現在の行田市に、成田氏が築いた城です。利根川と荒川に挟まれた広大な沼地を巧みに使った難攻不落の城でした。 

小田原攻めを前に、成田氏長は、後北条氏支援のために、手勢を率いて小田原城に入ります。忍城には、伯父である成田泰季を城代として立てます。秀吉は、石田三成に2万3千の軍勢を与え、わずか500人の兵と農民2,500人が立てこもる忍城を攻めさせます。この大軍は、秀吉が内務官僚型の三成に武勲を挙げさせるためだったという説もあります。城代の成田泰季は戦の前に病を得て亡くなり、その嫡男・長親が跡を継ぎます。絶体絶命の危機ながら、忍城の士気は極めて高かったとされます。沼に守られた忍城を攻めあぐねた三成は、水攻めを決断します。農民を使って堤を急造し、利根川と荒川の水を引き入れます。ただ、堤内が水で満たされても、本丸が水没することはありませんでした。このことから、忍城は”浮城”とも”亀城”とも呼ばれます。

その直後、大雨が降り、三成の堤は決壊します。領民の意図的な手抜き工事とも、成田側の工作の成果とも言われます。援軍を得た三成は、総攻撃を仕掛けます。そこに立ちはだかったのが甲斐姫でした。当時、二十歳に満たない甲斐姫は、城主・成田氏長の長女で、関東随一の美女との評判が高く、勝ち気で武芸にも優れていたと言われます。数で圧倒する三成軍に対し、鎧兜を身につけた甲斐姫はわずか200騎を率いて奮闘し、忍城は辛くも攻撃を退けます。しかし、ほどなく、小田原城が落ち、北条側で唯一残った忍城も、城主の命によって開城させられます。城を去る甲斐姫を、領民たちは拍手喝采で見送ったとされます。その後、甲斐姫は、蒲生氏郷預かりとなった父・氏長に従って会津へ行きます。氏郷の信任を得た氏長は、出城の守備を任されます。

氏郷の戦の支援に出た氏長・甲斐姫の留守中、部下の浜田兄弟が謀反を起し、氏長の家族や郎党を皆殺しにします。知らせを聞いた甲斐姫は、十数騎だけを従えて城に乗り込みます。対する浜田兄弟は200騎と大差があったものの、兄弟の首を取った甲斐姫は、城を奪還します。この見目麗しい女傑の噂を聞いた秀吉は、甲斐姫を側室として迎え入れます。側室としての甲斐姫の動向は、和歌も含めて文献に残されているようですが、秀吉没後の記録はないようです。ただ、淀君の信を得て、秀頼の養育係や隠密的な役割を果たしたとも、また秀頼の娘の養育係となり、大坂の陣後、娘を連れて鎌倉の縁切り寺・東慶寺に入ったとも言われます。いずれも、甲斐姫の秀でた武芸にちなんだ説のように思えます。ちなみに、秀頼の娘は天秀尼となり、東慶寺の住職を務めています。

2012年、忍城の戦いを描いた映画「のぼうの城」がヒットしました。映画は、城代になった成田長親を主人公とするフィクションでした。甲斐姫も登場しますが、あくまでも脇役であり、その活躍までは描かれていませんでした。忍城の甲斐姫は男性以上に勇猛に戦ったわけで、フェミニストが喜びそうな話ではあります。武家における男女差別は、戦国期に始まり、江戸期に定着したと言われます。逆に言えば、この頃、まだ女性の家督相続もあり、まだ戦場には女性の姿もあったということです。ただ、戦で負けた甲斐姫のその後を左右したのは、大家に生まれた美人だったということなのでしょう。ゆえに生き残り、ゆえに後世に武勇が伝わったわけです。武者から側室という甲斐姫の人生は、この頃の女性差別の変遷そのものとも言えそうです。全国各地には、名もなき女性戦士の伝承や遺物が、まだまだ残っているのではないかと思います。(写真出典:articles.mapple.net)