2025年8月23日土曜日

百年の孤独(配信シリーズ)

南米を中心にバカ売れしている小説があると聞いたのは大学生の頃でした。ガブリエル・ガルシア・マルケスの「百年の孤独」(1967)です。実際に本を買ったのは、ガルシア・マルケスが1982年にノーベル文学賞を受賞したあとでした。しかし、独特な匂いを醸し出すかのような濃厚な世界は、遅くまで働く会社員が読み進めるにはハードルが高すぎ、結局、途中で断念しました。 2024年、初めて文庫本化されると、ベストセラーになり、ブームの様相まで呈します。一般受けするような本ではないので、驚きました。良いきっかけなので、40年越しの宿題に取り組もうかと思っていたところ、昨年末、Netflixが、初めて「百年の孤独」を映像化しました。シーズン2も予定されているというので、それを待つつもりでしたが、我慢できずに見てしまいました。

「百年の孤独」は、ブエンディア家と架空の町マコンドの百年を描く物語です。それは南米の歴史そのものだと言われます。ただし、史実に基づく叙述ではなく、いわば精神における南米史であり、それも南米の人々にしか理解できないであろう感性に貫かれています。とりわけマジック・リアリズムと呼ばれる現実と幻想が渾然一体となった作風は、ガルシア・マルケス以降、南米文学を代表する特徴にまでなります。「百年の孤独」の映像化に関しては、著名な映画人によるオファーが殺到したにも関わらず、ガルシア・マルケスは全て拒否しています。この長い物語は、映画の枠内に収めることが難しく、またスペイン語以外の言語で映像化されることをガルシア・マルケスが嫌ったからだと言われます。それほどスペイン語は、重要な要素だったわけです。

寺山修司は、1984年、無許可で、舞台を日本に置換えた翻案版「さらば箱舟」を撮っています。寺山のテーマ性からして、「百年の孤独」に深く魅了されたことは理解できますが、舞台を日本に変えた時点で、まったくの別物になっています。今回のNetflix版が可能になった最大の理由は、配信シリーズという新たな映像表現によって長尺さがクリアできたことだと思います。また、監督のアレックス・ガルシア・ロペスは主に配信シリーズで活躍してきたアルゼンチン人ですが、他のキャストもスタッフも全てコロンビア人であり、ロケ地も全てコロンビア、言語は当然スペイン語となっています。まさに、ガルシア・マルケスの意向に沿ったものとなっているわけです。ガルシア・マルケスは、10年前に亡くなっていますが、版権を持つ息子たちが映像化を許可しました。

文学作品の映像化は限界があるものです。原作にインスパイアされた別物と考えるべきなのでしょう。しかし、本作は、かなり高いレベルで原作を映像化できていると思います。映像化にあたり、再現すべきものと捨てるべきものとの峻別が潔く出来ていると思います。美しい映像が伝える濃厚な空気感、キャストが醸し出すリアルさ、ナレーションの使い方の見事さ等もありますが、最も感心したのはテンポです。原作の持つ独特なテンポが再現されているように思います。そのテンポが、他の要素と相まって、独特な没入感を生んでいます。ガルシア・マルケスが、マジック・リアリズムを用いて表現したかった精神性を忠実に映像化することは難しいとしても、この南米的とも言える独特なテンポこそがシリーズの成功の鍵を握っているように思います。

「百年の孤独」は、アントニ・ガウディのサグラダ・ファミリアを思わせるものがあります。人、物、出来事の意味するところを読み解いていく楽しみにあふれていますが、それを簡単に許すような作品でもありません。恐らく”孤独”の意味するところを深く感じることこそ、作品の理解につながるのだと思います。ブエンディア家の人々の孤独、マコンドの孤独、そして南米の孤独。ガルシア・マルケスは、南米の悲しい歴史は、孤独の成せる業だと言っているように思えます。孤独が、いかにして持ち込まれ、いかにして人々を蝕み、いかにして社会を崩壊させていったのか。原作では、かすかではありますが、南米の再生への道が示されます。そこまで行かないとこの名作の映像化は意味を成さないと思います。シーズン2が待ち遠しいところです。(写真出典:cinemacafe.net)

2025年8月21日木曜日

ラジオ体操

子供の頃、夏休みの朝はラジオ体操で始まりました。近所の公園などに集まって行います。カードが渡され、参加すると、毎朝、スタンプが押されます。夏休み明けに学校へカードを持っていくと、皆勤賞として鉛筆か何かをもらえたように記憶します。気持ち良いとか、爽やかとか、と思ったことはありませんし、好きでもありませんでした。朝、たたき起こされて参加するわけですから、張り切って参加するようなものでもありませんでした。ただ、体操自体が嫌いだったわけではありません。ラジオ体操は、よくできたストレッチ運動であり、体操の授業や部活の始まりでもやっていました。問題は、体操そのものではなく、早朝、集合して体操させられることです。 

自由参加といいながら、半ば強制的、義務的というインチキぶりが嫌いでした。後知恵ではありますが、偽善的、全体主義的な匂いがしたわけです。爽やかさを押しつけてくるラジオ体操の歌も、アナウンサーの声も好きになれませんでした。もっとも、眠いので嫌だったという面は否定できませんし、子供時分から、みんなで明るく的なものが苦手だったこともあります。ラジオ体操は全体主義の道具だと言い切ったのはGHQでした。もっとも、問題にされたのは満州でのラジオ体操の強要でしたが、戦後の一時期、ラジオ体操は中止されます。1980年代末に至り、アメリカの中西部で、そのことを思い出しました。円高が進み、日本メーカーの直接進出が盛んになり、毎週のように、どこかで日本のメーカーの工場がオープンしていた頃のことです。

親会社が米国に出れば、下請会社もついて行かざるを得ません。日本の地方から中西部に進出した自動車部品メーカーを訪問した際、日本人の社長が、アメリカ人も、誠意を持って向き合えば、我々の文化を理解してくれると、感慨深げに語っていました。その工場では、ほぼ完璧に日本式の工場運営を持ち込んだというのです。朝礼を行い、ラジオ体操をして、小集団活動も行っているとのことでした。最初はとまどっていた現地従業員も、今では喜んで参加していると言うのです。日本のものづくり文化は正しかったと言わんばかりの社長さんに、それは単なる勘違いですよ、とは言えませんでした。当時、どん底にあったアメリカの労働市場では、給料を払ってくれれば何でもする、というムードがありました。給料を倍にすると言えば、君が代だって歌ったと思います。

この種の行事では、主催者側と参加者側の意識のギャップは大きくなりがちです。ただ、全体主義的な印象はあるものの、ラジオ体操は軍部が発明したものではありません。1928年(昭和3年)に、逓信省簡易保険局が、昭和天皇即位を祝う事業の一環として始めています。なぜ簡保局かというと、国民の健康増進に関わるからでもありますが、きっかけとなったのが簡保局の監督課長がアメリカ視察の際に見聞したラジオ体操だったからです。世界初のラジオ体操は、1922年、ボストンで放送されています。監督課長が見聞したのは、メトロポリタン生命が提供していた番組だったようです。日本での放送開始から2年後の1930年、神田万世橋署の児童係だった面高叶巡査が呼びかけ、子供たちが集まりラジオ体操をする会がスタートします。諸説ありますが、どうやらこれがラジオ体操会の起源のようです。

それは、太平洋戦争へと続く満州事変が起こる1年前のことでした。ラジオ体操、ラジオ体操会、いずれの起源にも軍部は関与していません。ただ、満州事変以降、戦時体制が強化されていくなかで、全体主義的には重要な役割を果たしたのではないでしょうか。放送開始から100年近く経った今、ラジオ体操会はどうなっているのか調べてみました。近所に限っての話ではありますが、開催している町内会は少なく、開催している町内でも期間は1週間程度に限定しているようです。コロナ禍が転機となったのだと思います。想像するに、参加者は、子供たちよりも、高齢者の方が多いのではないでしょうか。(写真出典:nagasaki-np.co.jp)

2025年8月19日火曜日

USS コンスティテューション

日本でもクルーズ客船の人気が高まっているようです。私の周囲にも、行ってみたいと言う人が増えました。私は、退屈するに決まっているので乗りたいとは思いません。移動と宿泊がセットで効率的と言いますが、移動に時間が掛かりすぎるとも言えます。食事、エンタメ、アクティビティが充実し、かつオールインクルーシブでお得と言いますが、数日で飽きると思います。大きいとは言え閉鎖空間なので、息が詰まり、よほどの社交好きでもなければうっとしいはずです。しかも波が穏やかな日ばかりではありません。いずれにしても、クルーズ旅の本質は、のんびり、ゆっくりすることなのでしょう。それを目的にできない人は行くべきではないと思います。

と言いながら、過日、気になる広告を目にしました。新造された大型帆船による豪華クルーズです。その船で旅をしたいとは思いませんが、乗ってはみたいと思いました。そもそも帆船が好きで、特に19世紀以前の帆船には強く惹かれます。旅先に記念艦があれば、必ず乗船します。記念艦は、博物館船とも呼ばれ、保存・公開されている歴史的価値の高い艦船を指します。世界三大記念艦とされるのは、横須賀の「三笠」、英国ポーツマスの「ヴィクトリー」、そして米国ボストンの「コンスティテューション」です。いずれも軍船です。歴史的価値、あるいは保存体制といった観点から、記念艦は、おのずと軍船が多くなるのでしょう。日露戦争のおり、日本海海戦で活躍した三笠は蒸気船ですが、他は18~19世紀に活躍した帆走軍船です。

1797年就役の「USS コンスティテューション」、愛称「オールド・アイアンサイド」は、ボストン港の海軍施設に停泊し、一般公開されています。ボストンの観光名所フリーダム・トレイルのポイントの一つでもあります。USS(United States Ship)と付くだけあって、アメリカ海軍の現役艦であり、航行可能な就役艦船では世界最古とされます。アメリカを象徴する船として大事にされ、大きな記念式典などにも登場します。3本マストに砲数44門というフリゲート艦ですが、当時の標準的なフリゲートよりも大型だったようです。フリゲートは、帆船の等級を表します。2層、3層の砲列甲板を持つ大型の戦列艦に比べ、フリゲートの砲列甲板は単層で、より小型でより高速な軍船でした。哨戒、護衛、通商破壊等を主な任務としました。

コンスティテューションは、1812年に勃発した米英戦争で大活躍しています。当時、無敵とされた大英帝国海軍を相手に、5隻の軍船を大破・捕獲し、多くの商船を捕獲します。厚さ178cmというオーク材の側板、44門の砲を支えるための筋交いは、敵の砲弾をはじき返し、無傷のままだったといいます。それを見た英国の水兵たちは、コンスティテューションを「オールド・アイアンサイド」と呼びました。建国間もなく貧弱な海軍力しか持っていなかった米国のフリゲートが、世界一の海軍を次々と破っていく様に、国民は喝采を送ります。こうして、コンスティテューションは米国海軍の誇りとなり、国民に勇気を与えた伝説のフリゲートになったわけです。1830年、コンスティテューションは退役しそうになりますが、圧倒的な国民の声によって再建、再就役しています。

しかし、ほどなく蒸気船と鉄鋼船の時代がやってきます。コンスティテューションは、幾度か廃船の危機を迎えますが、やはり国民の声によって乗り越えます。今でも、コンスティテューションは、アメリカ人が最も愛する船であり続けています。それにしても、「憲法」という大仰な船名にはいささか驚きます。コンスティテューションと同時に建造された他のフリゲートの船名も「ユナイテッド・ステイツ」となっており、実に立派なものです。ほとんど軍船を持っていなかった新興国の思いが詰まった船名なのかもしれません。その後の米国海軍の船名には人名が多く使われています。ちなみに、日本は、伝統的に、軍船に人名を付けることはしません。その理由は、明治天皇が沈没した際の悪影響を懸念したためとされます。(写真出典:en.wikipedia.org)

2025年8月17日日曜日

十牛図

実家の近くに伯母夫婦の家がありました。伯母夫婦は、揃って旅に出ることが多く、その都度、留守番を頼まれました。夜は和室で眠るのですが、その床の間に30~40cmはあろうかという牛とその上で笛を吹く童子のブロンズ像が置かれていました。その牧歌的な姿には穏やかさが漂い、見ていると心が安らぐので、結構、お気に入りでした。牛と童子という組合せは、たまに目にすることもあったので、何を意味しているのかなど、まったく気にもなりませんでした。実は、十牛図の第6図「騎牛帰家」を像にしたものでした。十牛図は、悟りに至る十段階を表すとされます。北宋の臨済宗の禅僧・廓庵が、仏の道を人々に分かりやすく伝えるために考案したものです。

十牛図の牛は自己の仏性を表し、童子にはそれを探し求める自分が投影されていると言われます。十牛図は、十枚の図と詩で構成されます。括弧内は、私なりの解釈です。

尋牛(牛を探す)
見跡(牛の足跡を見つける)
見牛(牛の声を聞き、後姿を見る)
得牛(見つけた牛に手綱をかけるが暴れられる)
牧牛(なんとか牛を馴らす)
騎牛帰家(牛に乗って笛を吹きながら家に帰る)
忘牛存人(家に着くと牛は消え、自分が牛を得たことも忘れる)
人牛倶忘(牛だけでなく、ついに自分をも忘れ、空の世界に入る)
返本還源(世の中の本当の美しい姿が見えてくる)
入鄽垂手(悟りを得た者は、それを広く伝えなければならない)

十牛図は、悟りに至るプロセスを示すというよりも、禅僧の修行プロセスを語っているように思えます。第3図の見牛までは、自己の仏性を求めて座禅と問答を繰り返します。第4図の得牛で、おぼろげながら真理を理解するまでに至りますが、あまりにも捉えどころがなく苦悶します。第5図の牧牛では、ついに自己の仏性と自己が一体化し、次の第6図の騎牛帰家は、心が穏やかになり、修行が終盤に入ったことを表現しているのでしょう。騎牛帰家の絵や像が好まれるのは、修行を成し遂げて得られた平穏という理想を表しているからなのでしょう。第7図と8図では、修行や理屈を超え、自己の存在すら消滅する境地、つまり全ての物質が全否定された色即是空の世界に入ります。これが解脱であり、涅槃の境地に入ったことを示しているのだと思います。

涅槃寂静の境地に達した者は、如来と呼ばれます。解脱したのは、釈迦如来のみとされますが、他にもごくわずかですが如来と呼ばれる仏様もいます。菩薩、観音も高位の求道者ではありますが、涅槃の境地には達していません。解脱することは、それほど難しいわけですから、第8図までで終わってもよいのではないかと思います。しかし、第9図には、現世が新たな美しい姿で見えてくるという大きな展開が待っています。いわば全否定したからこそ、世界は全肯定という美しい姿を現わすというわけです。この展開は、弁証法に通じるものがあるとも言われます。禅が欧米人に人気があるのは、全否定から全肯定という展開が弁証法のアウフヘーベンに似ているからだと聞いたことがあります。分かったような分からない話ではあります。

昨年の東京国際映画祭で上映された蔦哲一朗監督の「黒の牛」は、十牛図を映像化した作品でした。示唆に富む映画だったと思います。監督なりの解釈による十牛図ということもあり、やや難解なところがありました。十牛図で言えば、映画は得牛というレベルにあったようにも思います。空という概念は、本当に難しいと思います。おぼろげにその概念を理解することはできても、それを人に説明する、さらには体得して生きていくとなると至難の業となります。蜃気楼のようでもあります。それを映像化しようというチャレンジは、賞賛に値します。しかし、「黒の牛」は、十牛図に迫るほどの説得力は持っていませんでした。(写真出典:shop.takarasagashi.co.jp)

2025年8月15日金曜日

「アイム・スティル・ヒア」

監督: ヴァウテル・サレス    2024年ブラジル・フランス

☆☆☆☆

1964年、ブラジルでは、アメリカに支援されたカステロ・ブランコ将軍がクーデターを起こし、左派政権を倒します。東西冷戦の時代、キューバ革命に恐れを成したアメリカは、南米各国の左傾化に神経をとがらせ、様々な介入を行っていました。ブラジルの軍事独裁政権は、1985年まで続きます。言論統制、左派勢力への弾圧が行われますが、とりわけ1969年に大統領に就任したガラスタス・メディチ将軍は、検閲を強化し、反対勢力に対する法的根拠のない逮捕や投獄、誘拐、拷問など信じがたい人権侵害を繰り返します。メディチ時代は、「鉛の時代」と呼ばれます。本作は、鉛の時代、1971年に発生した元国会議員ルーベンス・パイヴァの逮捕・失踪事件に基づいています。

本作は、典型的な政治サスペンス映画とは全く異なり、ルーベンス・パイヴァの妻エウニセ・パイヴァの苦難と戦いの40数年が描かれています。実に画期的なアプローチだと思います。ルーベンスの自宅は、イパネマ海岸近くの高級住宅街にある海に面した家でした。ある朝、軍関係者が自宅を訪れ、彼を連行します。軍も国も、ルーベンスの逮捕に関して、知らぬ存ぜぬを決め込みます。エウニセは、5人の子供を育てながら、軍や国と戦い続けます。戦うために法律を学んだ彼女は、弁護士資格も取得し、先住民を助ける活動も行っています。エウニセの辛抱強い取組の結果、逮捕から30年を経て、国はルーベンスの死亡証明を出し、軍も殺害への関与を認めます。しかし、1979年の恩赦を理由に実行犯の公表と処分はなされず、遺体の所在も不明のままです。

エウニセは、15年間、アルツハイマーを患い、2018年、89歳で亡くなっています。エウニセを演じたのは、俳優で作家という才人フェルナンダ・トーレスです。その抑制の利いた演技は実に見事なものです。彼女は、その演技で、アカデミー主演女優賞にノミネートされ、ゴールデングローブ主演女優賞を獲得しました。実は、彼女の母親は、ブラジル史上最高の女優とされるフェルナンダ・モンテネグロであり、かつて、アカデミー賞やゴールデングローブ賞の主演女優賞にノミネートされながらも受賞を逃しています。親の無念を子が晴らしたわけです。95歳になる彼女は、本作でも、老年のエウニセを演じ、さすがの演技を見せています。ちなみに、本作自体も、アカデミー作品賞にノミネートされ、ブラジル初となるアカデミー国際長編映画賞を獲得しています。

「セントラル・ステーション」(1998)でベルリンの金獅子賞を獲得しているヴァウテル・サレス監督は、実に巧みな監督だと思います。本作冒頭のシークエンスでも、その巧みさを見せつけています。映画は、ルーベンス一家の幸せな日々のスケッチから始まります。やや長めですが、決して冗漫ではなく、軍政の緊張感も含めた時代感が表現されます。実は、この流れるように描かれる日常は重要なメッセージを持っていると思います。ブラジルは、軍政下にありながらも、驚異的な高度成長を成し遂げ、人々は豊かさを実感しました。しかし、一方で、検閲・人権侵害、文化の弾圧が行われていたわけです。全体主義は、甘いマスクを被って人々に近づくものです。右傾化のリスクに直面する昨今のブラジルにとって、このメッセージはとても重要なのだと思います。

音楽は時代感をよく伝えるものです。本作も、音楽をうまく使っています。軍事政権は、音楽も弾圧し、例えば、ボサノヴァは退廃的だとして禁止されます。サンバにロックの要素も加えたトロピカリアは、MPB(ブラジルのポピュラー音楽)の新しいムーブメントでしたが、反体制的なプロテスト・ソングでもあり、カエターノ・ヴェローゾやジルベルト・ジルは投獄され、その後、亡命せざるを得ませんでした。軍事独裁時代、最低でも400人以上が殺害・行方不明となり、2万人以上が拘束されたとされます。これでも、アメリカに支援された南米の他の軍事政権に比べれば少ない方です。日本では、ブラジルの軍事独裁時代の認識が薄いように思います。それは、犠牲者が相対的に少なく、経済が成長し、サッカーのワールド・カップも開催されたからなのでしょう。しかし、そこでは信じがたい人権侵害が行われ、かつ、いまだ清算されていないわけです。(写真出典:eiga.com)

2025年8月13日水曜日

上野の西郷さん

上野公園の入り口近くに 、西郷隆盛像があります。「上野の西郷さん」と呼ばれて人々に親しまれ、東京を代表する名所ともなっています。明治の元勲たちの銅像と言えば、軍服か礼服を着ているものです。犬を連れ、寸足らずの浴衣をまとった西郷さんは、親しみやすいとも言えますが、かなり異様な姿でもあります。西郷像は、旧薩摩藩の有志によって計画され、1898年に序幕しています。西郷隆盛夫人は、主人はこんな人じゃなかった、と発言し、物議を醸したという話が伝わります。西郷の写真は一葉も残っていません。作者の高村光雲は、多くの人々の意見をもとに制作したようですが、人によって見る印象は大きく異なっていたものと思われます。

西郷隆盛像が軍服を着ていない理由は明確です。西郷は、戊辰戦争を新政府側の勝利に導いた立役者ながら、西南の役では朝敵、賊軍となります。1889年、大日本帝国憲法発布に伴う大赦で名誉回復したことから、銅像の建造計画も動き始めます。とは言え、朝敵となった人間に帝国陸軍大将の軍服を着せることは、さすがに憚られたのでしょう。加えて、明治政府は、軍服姿の西郷像が反政府勢力の求心力になることを恐れたのかもしれません。だとすれば、そもそも政府は、何故、西郷像の建造を許可したのか、という疑問も湧きます。明治政府は、一気に中央集権化を進めるため、賊軍に対して厳しい処置を行っています。建造が許可されたのは、西郷が維新の同志であること、あるいは既に中央集権化が実現していたからなのかもしれません。

明治政府が銅像の建造を許可した最大のねらいは、旧薩摩藩士、西郷を支持した士族、そして明治政府に不満を抱き、西郷にシンパシィを感じる国民の懐柔にあったものと思われます。明治政府は、建造資金の一部を提供しています。一方で、皇居前という設置場所の案を拒否し、上野恩賜公園を指定しています。さらに、西郷像の目線は、皇居を外して、南南東に向けられています。南南東に意味があるとは思えませんが、強いて言えば、先には流刑地だった八丈島があります。明治政府が加えた微妙な匙加減が感じられます。その最たるものが、浴衣姿だったのでしょう。庶民的と言われますが、家族や旧薩摩藩士からすれば、屈辱的だったのではないかと思われます。しかし、名誉回復したとは言え、朝敵だったことを考えれば、文句も言えなかったわけです。

西郷像に限らず、薩長政権の、かなり強引な、時としてきめ細かな広報戦略には驚かされます。王政復古という方便、官軍賊軍という構図を生んだ錦の御旗、武士集団を無力化した版籍奉還、廃藩置県など、天皇を利用して、倒幕・中央集権化を成し遂げたものの、実態は武家政権の交替だったわけですから、様々、辻褄を合わせる必要があったということなのでしょう。その天使のような大胆さと悪魔のような細心さには舌を巻きます。しかし、広報戦略をリードした元勲や外国人顧問の名前は聞いたことがありません。想像するに、多くは、冷徹な政治マシーンとも言える大久保利通のセンスによるものだったのではないでしょうか。ビスマルクを目指したという大久保は、内務省を通じて、独裁体制を築いています。

今につながる日本の官僚体制は、すべて大久保の内務省に始まると言ってもいいと思います。西郷像に関する匙加減は、既に大久保が暗殺された後のことですから、彼の薫陶を受けた内務官僚たちによるものだったのでしょう。武力で政権を奪取した者が最も恐れるのは武力革命です。武家を一気に無力化し、薩長による中央集権化を実現した大久保は、1878年、不平士族によって暗殺されます。西南の役の翌年のことです。西南の役は、西郷が自ら朝敵となり、自らの命と引き換えに武家の不満を抑えたという面もあります。幼なじみの西郷と大久保は、大きな絵柄を共有し、それぞれが得手とする分野で、命を懸けて武士の無力化を成し遂げたとも言えるのでしょう。大久保が生きていたとすれば、浴衣姿の西郷像を見て何と言ったか聞いてみたいように思います。(写真出典:yomiuri.co.jp)

2025年8月11日月曜日

「美しい夏」

監督:ラウラ・ルケッティ         2023年イタリア

☆☆☆

イタリアを代表する文学者チェーザレ・パヴェーゼのストレーガ賞を受賞した小説「美しい夏」(1949)が原作です。1938年、兄とともに田舎からトリノに出てきた16歳の少女が、都会の生活や大人の世界に、戸惑いながらも強く惹かれ、傷つきながら大人になっていく、というストーリーです。パヴェーゼは、ネオレアリズモの作家として知られ、マルキストで戦時中はパルチザンでもありました。ネオレアリズモは、ファシズムへの抵抗として、よりリアルで、より客観的に社会や人物を描きました。文学では、パヴェーゼ、エリオ・ヴィットリーニ、イタロ・カルヴィーノ、アルベルト・モラヴィア等が知られ、映画では、ロベルト・ロッセリーニの「無防備都市」、ヴィットリオ・デ・シーカの「自転車泥棒」が代表作と言えます。

イタリア最高の文学賞を受賞した原作の映画化は、なかなかの挑戦だと思います。ラウラ・ルケッティ監督は、豊かな言葉の世界を、短いカット、甘美な音楽、主演の演技で、そこそこにそつなくこなしていると思います。ある意味、正攻法とも言えます。ただ、ドラマティックな展開を持つわけではない原作を考えれば、映画としてはメリハリに欠ける平板な作品になることは避けがたいと思います。2つばかり長いショットで入れて山場を作ろうとしていますが、決してうまくはいっていません。また、不思議なことに、この映画は時代を感じさせません。背景、服装といったセッティングに抜かりはないと思うのですが、何故か現代的な印象を受けます。実のところ、それは監督のねらったことだったようにも思えます。

本作は、大人になっていく少女に、ファシズムに巻き込まれていく民衆の心理を投影しているのではないかと思います。そのことが、あからさまに、直接的に表現されているわけではありません。映画には、ムッソリーニのラジオ演説とポスターが登場するのみです。トマス・マンが「マリオと魔術師」でファシズムの本質を描いたように、ファシズムと戦ったパヴェーゼも、異なるアプローチでファシズムと大衆との関係を表現したかったのではないでしょうか。原作が発表されたのは、戦後のことです。ファシズムを克服したイタリアの民衆が大人になった主人公に、病気から立ち直ったあこがれの女性にイタリアの文化が象徴されているように思います。そして、右傾化するイタリアの現状を踏まえ、それは決して過去のことではない、と監督は言っているのでしょう。

本作の難点の一つは、主演女優だと思います。素朴さや田舎くささを表現した熱演だとは思いますが、残念ながら16歳の少女には見えません。作品のバランスを崩しているように思いますが、演技力を求めた結果なのか、あるいは意図的に少女っぽさを避け,作品の真のテーマを伝えようとしているのかも知れません。一方、少女が憧れるヌード・モデルの女性を演じたディーヴァ・カッセルは、見事な存在感を示しています。彼女は、イタリアの宝石と呼ばれるモニカ・ベルッチとヴァンサン・カッセルの娘です。本作が映画デビューとなりますが、17歳からモデルとして活躍し、20歳の今、既にトップ・モデルとなっています。初々しさとともに未熟さも感じさせますが、存在感と貫禄はなかなかのものであり、新たな宝石がモダンな姿で登場したといった印象を受けました。これからの活躍が楽しみだと思います。

舞台となっているトリノは、イタリア第二の工業都市です。イタリア統一の中核となったサヴォイア家のサルデーニャ王国の首都でもありました。後にフィアットの企業城下町として栄えます。フィアットとは、FABBRICA(工場)ITALIANA(イタリアの)AUTOMOBILI(自動車)TORINO(トリノ)の頭文字をとったものです。工場労働者の多い街は、労働組合運動の盛んな街でもありました。ムッソリーニのファシスト党が政権を取ると、トリノでは、労働組合への弾圧、同性愛者への弾圧が行われます。一方、反ファシズム運動が展開されたことでも知られる街です。本作の舞台がトリノであることは、単なる偶然ではありません。(写真出典:natalie.mu)

2025年8月10日日曜日

槍は、敵を突いて刺す武器です。ところが、戦国時代の足軽たちは、合戦に際して、まずは敵を槍で叩くことから始めていたと聞き、驚きました。その威力は、直撃すれば兜を打ち砕くほど強力だったといいます。突いて刺すのは、さらに敵と接近してからだったようです。大雑把に言えば、鎌倉時代までの合戦は武士同士の一騎打ちが中心だったわけですが、応仁の乱以降の合戦は大規模化し、足軽中心の集団戦へと変化します。そのなかで、修練しなくても扱いやすい槍が足軽の武器となります。また、槍は、足軽でも騎馬の武士に挑むことを可能にしました。さらに槍兵を隙間なく並べて作る「槍衾(やりぶすま)」や敵の側面を槍兵で崩すといった集団戦術も生み出します。

槍は、先史時代から、狩猟用具として、武器として世界中で使われてきました。日本では、弥生時代に青銅が伝わり、銅剣、銅矛、銅戈といった武器も生まれます。この頃は、槍ではなく矛がメインだったようです。矛は、槍に比べて、幅広で両刃の穂先を持つ刺・斬両用の武器です。矛の柄はソケット式、槍の柄は茎(なかご)を差し込んで固定するという違いもあるようです。古代は、片手に矛、一方に盾を持って戦っていたようです。古墳時代、鉄器が普及すると、武器としての矛は鉄太刀に変わっていきます。平安期には、太刀に加えて、薙刀が主流になります。古代の武器は、冶金技術の高度化、合戦の戦術の変化、甲冑の進化などと呼応しながら、変わっていくわけです。ちなみに、甲冑が進化することによって、盾は廃れていきました。

戦国時代の合戦における主な武器は、弓、槍、太刀でした。鉄砲も登場していたわけですが、数も少なく、装填に時間が掛かることもあり、主役とまではいかなかったようです。集団戦化ともに普及した槍ですが、必ずしも足軽専用の武器というわけではありません。戦場における威力からして、武士たちも槍で戦うようになります。太刀の出番がなくなるほどだったようです。恐らく強化された甲冑を考えれば、太刀では跳ね返され、槍ならば突き刺すことも可能だったということなのでしょう。槍の弱点は、密集した近接戦において柄の長さが邪魔になるということですが、四畳半での一騎打ちでもない限り、屋外ではさほど問題になることもなかったのでしょう。武士が槍を使うようになると、武芸としての槍の流派も生まれてきます。

江戸初期にかけて、多くの流派が創設されたようですが、その後、勢いを失ってきいきます。主要な武器としての気位が高く、伝統と形式にこだわりすぎたためとされています。江戸後期になると、防具も登場し、他流試合も行われ、より実践的な姿を取り戻した槍術は息を吹き返します。ただ、明治になると、他の武芸と同様に廃れていきます。戦の形も様変わりし、何よりも武士がいなくなったわけですから、止むなしといったところです。それでも、剣術は、剣道として体育の授業に採用されたこともあり、生き延びます。長大な道具ゆえ体育には不向きだった槍術は消えていきます。もちろん、今でも、宝蔵院流高田派などいくつかの流派は活動を続けています。槍は、戦場における実用性の高さゆえ、平時には廃れていって当然だったのかもしれません。

幕末、江戸城の無血開城によって、江戸の町と多くの人命を救ったのは勝海舟と西郷隆盛だとされます。当時、幕府側にはフランス、新政府側には英国がついており、混乱に乗じて日本を植民地化する計画を持っていたとされます。無血開城によって、植民地化のリスクも回避されたわけです。しかし、無血開城は勝海舟の手柄ではなく、徳川慶喜を説得した高橋泥舟、勝海舟に先立って西郷と折衝した山岡鉄舟の手柄であるという説もあります。幕末の三舟とも言われる3人ですが、泥舟は、槍術の名門である自得院流宗家に生まれ、達人の呼び声高い人でした。そして、鉄舟は入り婿として自得院流宗家を継いだ使い手でした。両者とも、実に肝の据わった典型的サムライだったとされます。まさにラスト・サムライとも言える二人が、共に槍の達人だったことは、槍という武器の実践的な性格からして、頷けるところがあります。(写真出典:sankei.com)

2025年8月7日木曜日

梁盤秘抄#38 Original Classic Recordings Vol.1

アルバム名:Original Classic Recordings Vol.1 (1955)                              アーティスト:Jacob do Bandolim

ショーロは、19世紀後半、リオ・デ・ジャネイロで生まれました。西アフリカのリズムとヨーロッパの舞踊曲が融合した音楽とされます。即興性を重視するインストゥルメンタルであり、ブラジルのジャズとも呼ばれます。サンバとともにブラジルのポピュラー音楽の源流を成していると思います。1918年生まれのジャコー・ド・バンドリンは、公務員をしながら、十代の頃からバンドリンの名手としてラジオ出演します。バンドリンは、フラットバックのマンドリンであり、ショーロには欠かせない楽器です。ジャコー・ド・バンドリンが初めてレコード録音をしたのは1947年のことでした。以降、ショーロを代表するアーティストとして活躍します。

16世紀初頭、ポルトガルの探検家たちが、グアナバラ湾に到達します。湾を大河と誤認した彼らは、”リオ・デ・ジャネイロ(1月の川)”と名付け、白壁の家を建て始めます。先住民は、この家を”カリ・オカ(白い家)”と呼びます。カリオカは、リオ・デ・ジャネイロの人々を指す言葉になりました。17世紀、リオは金やダイヤモンドの輸出港として栄えます。そして1808年、ナポレオンに攻められたポルトガル王室は、リオへと遷都します。5万人の町に、1.5万人の王族や役人がやってきます。リオにはヨーロッパの文化があふれることになりました。宮廷の舞踏会で踊られていたポルカは、体が接触することから庶民の間でも人気となります。そして、黒人奴隷たちが好んだルンドゥというセクシーな踊りと合体していきます。

このダンスを踊る際、庶民が宮廷の楽士を真似て演奏したギターやピアノが、独特に変化してショーロが生まれたとされます。当初、ショーロは、音楽のジャンルではなく、フルート、カヴァキーニョ、ギターで構成するトリオを指してたようです。カヴァキーニョは、ポルトガル発祥のスティール弦を張った小さなギターです。後に、ポルトガル移民がハワイに持ち込み、ナイロン弦のウクレレになります。ショーロの語源には諸説あります。日本ではチャルメラと呼ばれるポルトガル楽器シャラメラを吹く人たちはショロメレイロスと呼ばれましたが、これが器楽演奏であるショーロに転じたという説があります。また、ショーロは、ポルトガル語で泣くことを意味し、メランコリックな曲調ゆえにショーロと呼ばれるようになったという説もあります。

ショーロの特徴としては、楽器編成、メランコリックなメロディ、速いリズム、シンコペーションと対位法などが挙げられます。そして、超絶技法も、忘れてはならないショーロの特徴だと思います。初期のショーロを担ったのは、理髪店で働く黒人奴隷たちでした。時間に余裕のある彼らは、演奏テクニックを競い合ったものだそうです。ジャコー・ド・バンドリンの本名は、ジェイコブ・ピック・ビッテンコートですが、その超絶技巧ゆえ、バンドリンのジャコーと呼ばれるようになり、それが固有名詞化します。その早弾きと流れるような演奏は驚異的と言えます。音楽の盛んなブラジルでは、競争の激しさもあって、楽器の演奏レベルは極めて高いと思います。多くの天才的名手も生まれていますが、なかでもジャコー・ド・バンドリンは群を抜いています。

ショーロの曲と言えば、ディズニー映画で使われヒットした”ティコティコ”、ジャコー・ド・バンドリンが作曲した”カリオカの夜”などがよく知られています。この2曲は、アップテンプで楽しい曲調になっています。しかし、ジャコー・ド・バンドリンの名演集であるこのアルバムには、そのような曲は収録されていません。超絶技巧によって、メランコリーの極致が展開されます。このアルバムを聴く限り、ショーロの語源は、やはり”泣く”ということかと納得できます。ポルトガルのファドやブラジル音楽全般に流れるサウダージという情感が、ストレートに表現されているように想います。恐らくブラジルのサウダージには、黒人奴隷たちの悲しみも染みこんでいるのでしょう。(写真出典:amazon.co.jp)

2025年8月5日火曜日

盆踊り

時代とともに、伝統文化が失われていくことは、やむを得ないことだと思います。ただ、なかには、消えて不思議はないのに生き残っている文化もあります。その一つがご近所の盆踊りだと思います。夏の週末には、近所のあちこちで盆踊りが行われています。コロナ禍をきっかけに廃れる運命かと思っていましたが、見事に復活しました。私は、盆踊りの輪に加わったことがありません。そういう人間からすれば、その根強い人気の源は何なのが、さっぱり分かりません。もちろん、踊ることも、お祭り騒ぎも楽しいには決まっていますが、ほぼ同じ曲が流れ、決まったフリを繰り返すだけの退屈な代物に思えてなりません。音楽はCDなのに、太鼓だけは櫓の上で生演奏というのも、よく分からないと思ってしまいます。

日本三大盆踊りとされるのは、秋田の「西馬音内盆踊り」、岐阜の「郡上踊り」、徳島の「阿波踊り」です。他にも風情あふれる富山の「おわら風の盆」、熊本の「山鹿灯籠まつり千人灯篭踊り」などもよく知られています。同じ盆踊りでも「阿波踊り」や群馬の「桐生八木節まつり」の熱狂も興味深いと思いますが、ゆったりと、しっとりと歌い踊るものに魅力を感じます。とりわけ「おわら風の盆」には、とことん魅了され、5~6回は通いました。つまり、地域の古い伝統に根ざした盆踊りは魅力的だと思いますが、ご近所の参加型盆踊りは好きになれないということです。地域の連帯や暑気払いといった盆踊りの効用に関しては同じなのでしょうが、仏事に根ざさない、ただの安易なレクレーションという軽薄さが気に食わないわけです。

盆踊りの起源に関しては諸説あるようです。男女の出会いの場だった古代の歌垣を起源とする説もあるようですが、やはり、仏教起源、それも浄土宗由来という説が、最も一般的だと思います。浄土宗は、念仏を唱えれば誰でも極楽浄土に行けるという教えですが、その先駆者とされるのが平安中期に登場した空也上人です。空也は踊念仏を考案した人としても知られます。宗教と踊りは密接不可分な関係にあります。信者も踊る参加型としては、イスラム神秘主義のスーフィー、あるいはブードゥーなどを思い起こしますが、トランス状態に入ることで神秘的な神の領域を体験するということなのでしょう。念仏と踊りは誠に相性が良く、踊念仏もトランス状態を生むのだと思います。鎌倉時代になると、時宗の開祖一遍上人が踊念仏を広めていきます。

一遍の踊念仏は、熱狂的に受入れられ、やがて大衆化した念仏踊りとして各地に広がっていきます。これが、先祖崇拝の盂蘭盆会と結びついて盆踊りになったということなのでしょう。室町期には単純に娯楽化して、江戸初期には大ブームを巻き起こしたようです。他の祭りと同様、あるいはそれ以上に、男女の出会いの場、性的エネルギーの解放という性格が色濃く、明治期には風紀を乱すものとして取り締まりも行われたようです。盆踊りと言いながらも、既に盂蘭盆会からはかなり離れていたわけです。単にお盆と呼ばれることが多い盂蘭盆会は、この時期、子孫のもとに戻ってくる先祖の霊を迎え、慰めるという仏事です。先祖の霊が迷わぬように焚かれるのが迎え火・送り火であり、霊を乗せるためにナスやキュウリで精霊馬が作られます。花火、七夕、中元など夏の行事の多くは、盆踊りと同様、お盆から派生したものです。

盂蘭盆会は中国で生まれた仏事だとされます。中国に伝わった仏教と中国伝統の先祖崇拝が融合して生まれたとも、仏教が中国での布教のために中国の風習を取り込んだとも言われます。由来に関しては、目連尊師の伝説が有名です。目連は、地獄の餓鬼道に落ち、喉を渇かし飢えた母の姿を見つけます。目連は、水や食べ物を母に差し出しますが、すべて炎と化します。目連がお釈迦様に相談すると、すべての修行者に食べ物を施せば、その一部が母親にも届く、と教えられます。その通りにすると、母は餓鬼道から救われます。これが盂蘭盆会の起源だというわけです。この話で、いつも気になるのは、目連の母が餓鬼道に落ちた理由が語られていないことです。仏教説話としては、そこがポイントの一つだと思うのですが。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2025年8月3日日曜日

「私たちが光と想うすべて」

監督:パヤル・カパーリヤー      2024年仏・印・蘭・伊・ルクセンブルク

☆☆☆☆

2024年のカンヌ国際映画祭で、パルムドールに次ぐグランプリを獲得した作品です。映画大国インドに初めてのアカデミー国際長編映画賞をもたらすのではないかと期待されていたようです。ところがインド代表にすら選ばれませんでした。どうも、インドの代表選考にはボリウッドを支配する財閥の意向が反映されていたようです。本作を選ばなかったことを批判された選考委員は「インドで撮られたヨーロッパ映画ではなく、インドで撮られたインド映画を選んだ」と発言したそうです。資本と作品をすり替えた言い訳に過ぎませんが、本作の特徴を表す興味深い発言だとも思います。

本作は、ムンバイを舞台としながらも、従来のインド映画とは大いに異なる映画になっています。見ていて、インドのヌーベル・ヴァーグなのではないかとすら思いました。低予算、短期間で撮られた映画は、ドキュメンタリー・タッチと自然主義的演出によって、イキイキと瑞々しく等身大のインド社会を映し出しています。ドキュメンタリー映画作家の監督にとって、本作は初の長編ドラマです。2021年には、彼女の初となる長編ドキュメンタリーがカンヌで最優秀ドキュメンタリー映画賞を獲得しています。既に注目される女性監督だったことが、出資金と助成金をかき集めて本作を制作できた背景にあるのでしょう。恐らく、インド国内で、若い女性監督がインデペンデント系映画の出資を募ることは至難の業だということでもあります。

映画は、ヒンディー語ではなく、マラヤーラム語で制作されています。インド南部ケラーラ州のマラヤリ人を中心に3,500万人が使う言語です。インドへ旅行した際、ガイドさんが、インドはアメリカ以上に合衆国です、と言っていました。主に言語で区分された州の独立性の高さはインドの特徴でもあります。映画の舞台はムンバイですが、同じアラビア海沿いということもあり、多くのマラヤリ人が住んでいるようです。マラヤーラム語で制作されたことが、この映画の本質に深く関わっています。本作は、因習が色濃く残るインド社会の閉鎖的な現実、あるいは世代間のギャップを見事に伝えていますが、それは、ある意味、ムンバイの異邦人であるマラヤリ人、そして女性監督の目を通して描かれることで、より鮮明になっているのだと思います。

マラヤーラム語映画としては、「ジャッリカットゥ 牛の怒り」(2019)が思い出されます。ケラーラ州は映画産業も盛んで、ムンバイを中心とするボリウッド映画に対して、モリウッド映画と呼ばれます。胡椒の原産地であるケラーラ州は、古くからアラブや欧州と交易してきた歴史があり、開かれた気風を持つと聞きます。マラヤーラム語映画がインド全土で字幕付で公開されることあるようです。ジャッリカットゥも、アカデミー国際長編映画賞のインド代表に選ばれています。ケラーラ州の北には、インドのIT産業の中心地バンガロールを擁するカルナータカ州があります。さらにその北がムンバイのあるマハーラーシュトラ州となります。ムンバイではインド・ヨーロッパ語系のヒンディー語が話されますが、ケラーラやカルナータカはドラヴィダ語系であり、大いに異なります。アラビア海に沿ったこの地域は、北インドとは異なる国だと言えます。

インドにも少なからず女性監督はいるようですが、まだ若いパヤル・カパーリヤー監督の登場は、インド映画界のみならず、インドの女性たちにとって新しい時代を予感させるものであってほしいと思います。ただ、彼女は、インドの典型的な若い女性というわけではありません。というのも、彼女の母親は、世界的に活躍し、高く評価されるビデオ・アート作家のナリニ・マラニだからです。ナリニ・マラニは、カラチの生まれですが、インド・パキスタンの分離独立の際、難民としてムンバイにたどり着いた人です。難民としての過去を持ち、高名な芸術家として世界で活躍する母のもとで育った彼女は、極めて希な存在と言えます。このことも、インド社会、インドにおける女性といった観点を、客観的に、かつ冷静に捉える背景になっているのでしょう。(写真出典:eiga.com)

2025年8月1日金曜日

玄冶店

30年前、人形町の老舗料亭「玄冶店 濱田家」で会食したことがあります。政治がらみの宴席で、有名な久松はじめ芳町芸者もあげての宴席でした。店名につく”玄冶店(げんやだな)” の意味が分からず、こっそり仲居さんに聞いたことを覚えています。江戸初期、将軍家の御典医を務めた岡本玄冶が、幕府から拝領した土地に借家を建てて貸したことから、玄冶店と呼ばれるようになったとのことでした。今も人形町通りに面して「史跡 玄冶店」という石碑が立っています。店(たな)とは借家のことであり、借主やテナントを店子と呼ぶ習慣も残っています。それにしても、借家の通称が地名化し、長く残るなど、極めて希な話です。そして、その背景には歌舞伎の当たり狂言の存在がありました。

歌舞伎の人気演目「与話情浮名横櫛」、通称「切られ与三郎」は、1853年に初演された世話物の名作です。その三幕目に名台詞で知られる”鎌倉源氏店妾宅の場”があります。当時、歌舞伎では実名の使用が禁じられていたので、玄冶店を鎌倉源氏店に変えて上演されました。江戸の大店の若旦那の与三郎は、身を持ち崩し、木更津の親戚に預けられています。与三郎は浜でお富と出会い、相思相愛の仲となります。しかし、お富は土地の親分・源左衛門の妾だったため、与三郎はめった斬りにされ、お富は追われて入水します。しかし、二人は、なんとか生き延びており、与三郎は34ヶ所におよぶ刀傷をウリにする無頼漢に、お富は入水した海で助けてくれた商人の妾として玄冶店に囲われ、それぞれ暮らしています。

三年後のある日、与三郎は、さる妾宅へ強請に入ります。そこに居たのはお富でした。片時も忘れたことのない愛しさ、そして再び妾になっていることへの怒りが与三郎の胸中で交錯します。そうした複雑な思いを表すのが「御新造さんぇ、おかみさんぇ、お富さんぇ、いやさ、これ、お富、久しぶりだなぁ」に始まる名台詞です。この七五調のキレの良い台詞回しが江戸っ子のハートを掴んだのでしょう。与三郎・お富の話は、何度か映画化もされています。また、1954年に春日八郎が歌った「お富さん」も大ヒットしています。その歌詞は「粋な黒塀 見越しの松に 仇な姿の 洗い髪 死んだ筈だよ お富さん 生きていたとは お釈迦さまでも 知らぬ仏の お富さん エーサオー 玄冶店」と、江戸好みの調子の良いものでした。

東京で、人形の街と言えば、久月、吉徳といった老舗が並ぶ浅草橋です。と言っても、浅草橋は様々な問屋が並ぶ街であり、決して人形専門の街ではありません。一方、人形町は、名前と異なり人形屋が全くありません。江戸初期、このあたりには花街の吉原がありました。ところが、明暦の大火後、幕府は吉原遊廓を日本堤へ移転させます。その後、人形町には、芝居小屋や浄瑠璃小屋、そして私娼窟や陰間茶屋が並ぶことになります。周辺には浄瑠璃の人形師たちも多く住むようになり、人形町と呼ばれるようになったのだそうです。人形町界隈は、現代風に言えば繁華街であり、歌舞伎町といった風情だったのでしょう。ちなみに、歌舞伎町は、戦後、歌舞伎の劇場建設計画があり、町名にもなりました。ただし、実際には建設されず、町名だけが残りました。

人形町には、今も名店が多く残ります。濱田屋、人形町今半、重盛永信堂、高嶋家、志乃多寿司、日山、玉ひで、双葉、おが和等々、枚挙に暇がありません。甘酒横丁を浜町へと進むと、新派の明治座があります。新派の代表作の一つに川口松太郎の「明治一代女」があります。美人で気風が良いと評判だった芸者・花井お梅が、1887年、浜町河岸で実際に起こした殺人事件がモティーフとなっています。事件を起こした時、お梅は浜町で待合(貸席)を経営していました。事件現場で事件に基づく芝居が上演されているわけで、なんとも不思議な話です。いずれにしても、人形町、浜町界隈は、その賑わいを失ったとは言え、繁華街だった往時の残り香をしっかり残していると言えそうです。(写真出典:intojapanwaraku.com)