2025年7月6日日曜日

パーム・オイル

アブラヤシ畑
中国の黄河を初めて見たのは、イスラマバードから北京に向かう機上からのことでした。その雄大さ以上に、黄色い泥水に驚きました。長江も同様であり、日本の澄んだ水の川を見慣れた我々にとっては大いに違和感があります。日本の川は、流れが急で短いことから、ミネラルの混入が少なく、澄んだ軟水になるようです。当然のことながら、水の違いは、料理の違いを生みます。日本の出汁の文化は軟水がゆえに成立しており、あっさりとした味付けが多くなります。対して硬水の中国では、味付けが濃くなりがちで、かつ水ではなく高温の油で調理することが多くなるのだそうです。同じ中華文化圏ながら、台湾は軟水の国であり、味付けはあっさりとして日本人の口にもよく合います。

中国語で、””頑張れ”は「加油」となります。語源は、勉強中にランプが消えないように油を足すこととされます。また、加油は調理を意味し、しっかり食べてがんばれということだとする説もあるようです。油は調理に欠かせないものになっているわけです。1970年代末から、日本では烏龍茶ブームが起こりました。人気絶頂だったピンクレディーが健康のために烏龍茶を飲んでいると発言したことがきっかけだったとされます。油を使った料理が多いわりには太った中国人が少ないのは、食事の際に烏龍茶を大量に飲むからだ、というわけです。確かに、烏龍茶のポリフェノールには、脂肪の吸収を抑制する効果があるようです。さはさりながら、当時の中国人が太っていなかった最大の理由は、一人当たりGDPがまだまだ低かったからだと思います。

開発途上国では、当然のことながら、経済成長とともに供給カロリーが上がっていきます。1960年台はじめの中国における一人当り一日当りの供給カロリーは、1500Kcalに満たなかったようです。干ばつと大躍進運動がもたらした”3年大飢饉”の影響が長引いたことも背景にあるのでしょう。それが、1970年代末の改革開放後には、急激な増加に転じます。2022年には3500Kcalに迫り、世界トップ5にランクインしています。近年多く見かける中国人旅行者には小太りな人が多いように思います。ちなみに、供給カロリーも肥満率も世界トップに君臨するのはアメリカです。かつて、アメリカの供給カロリーは、欧州各国と比して相対的に低い水準にありました。それが増加に転じたのは、1980年代のことであり、1990年代には世界トップに踊り出ます。

アメリカ人の肥満の原因は、ジャンク・フードにあると言われます。それもそのとおりだとは思いますが、ジャンク・フードは80年代に至ってはじめて普及したわけではありません。アメリカの供給カロリーが増加に転じたのは、ジャンク・フードや冷凍食品にパーム・オイルとコーン・シロップが多用されるようになったからだとされます。アブラヤシからとれるパーム・オイルは、調理用だけでなく、マーガリン、菓子類、インスタント食品などの加工食品用で多用され、石鹸やバイオ燃料にも使われています。その生産量も消費量も、植物油のなかでは、大豆油、菜種油を抑えてトップです。アブラヤシの原産は東アフリカですが、栽培が始まったのは19世紀のインドネシアとされます。オランダ人が種を持ち込み、栽培を始めたわけです。

マレーシアで驚いたことの一つは、どこへ行ってもアブラヤシ畑だらけだということです。マレーシアは、インドネシアに次ぐパーム・オイルの生産国であり、この2ヶ国が世界の生産量の8割を占めます。かつて、マレーシアはゴム園だらけだったようですが、1960年代からアブラヤシへの転換が始まりました。そのころからパーム・オイルの生産・消費が拡大し、急成長を続けてきました。パーム・オイルが植物油のトップ・シェアになったとは言え、調理用油としては、アメリカ、南米、中国では大豆油、欧州や日本では菜種油が、依然、主流です。つまり、パーム・オイルは、調理ではなく加工分野でシェアを急拡大してきたわけです。パーム・オイルは、動物性脂肪と同じく飽和脂肪酸が多く、肥満や生活習慣病への悪影響が懸念されています。また、自然破壊や労働問題も指摘されています。しかし、安価で使い勝手のよいパーム・オイルは、生産、消費ともに拡大を続けています。(写真出典:sustainablejapan.jp)

2025年7月4日金曜日

三十年の馬鹿騒ぎ

邦画好きの知人の勧めで深作欣二監督の「仁義の墓場」(1975)を見ました。興行的には振わなかったものの、ジワジワと評価を高め、キネマ旬報「オールタイムベスト・ベスト100」日本映画編(1999年版)では38位に選ばれています。ちなみに深作欣二の「仁義なき戦い」(1973)は第8位に選出されています。当時、仁義なき戦いに熱狂したにも関わらず、なぜ、この映画を見ていなかったか不思議に思いました。要は、仁義なき戦いシリーズのマンネリ化に嫌気が差して、実録やくざ物からも、深作欣二からも遠ざかっていた頃だったのです。主演は、潰れた日活から東映に移った渡哲也ですが、実録やくざ物には不向きであり、かつ、流行だからといって、あわてて実録ものに出演する姿勢も気に入らなかったと記憶します。

映画は、敗戦直後の新宿で名を馳せたやくざ石川力夫の短い半生を描いています。石川力夫は、水戸の出身で、10代で新宿に出て、南口の闇市を仕切っていた和田組に身を寄せます。20歳で、親分を切りつけて、収監され、かつ破門、処払い10年という制裁を受けます。大阪に身を潜めますが、この間に麻薬中毒になっています。1年半で、兄弟分を頼って新宿に舞い戻りますが、世話になったその兄弟分を殺害します。府中刑務所に収監中、屋上から飛び降り自殺しています。享年30歳でした。独房の壁には「大笑い 三十年の馬鹿騒ぎ」という辞世の句が残されていました。親分や兄弟分に刃物を向けることなどやくざ社会ではあり得ないことです。石川は、掟という伝統に徹底的に背いた反逆者として知られているようです。

仁義なき戦いは、行き場のない復員兵という構図に、組織対組織、組織対個人という普遍性の高いテーマを重ねていました。また、東映内部で言えば、マンネリ化した着流しやくざものからの脱却という背景も持っていました。仁義の墓場では、ひたすら石川力夫個人がフォーカスされています。組織対個人という構図も、死に場所を求める戦中派の苦悩という背景も、深掘りされることがありません。石川の抱える心の闇をえぐることもなく、石川の狂犬ぶりだけが淡々と描かれます。それだけに、その殺伐とした人生の凄みが、ジワジワと見る側の心にしみわたってきます。見終わってみれば、他の映画では、なかなか感じられないほどの重く暗い印象が残り、かつ持続します。ゆえに実録やくざ物の極北と呼ばれるのでしょうが、嫌な後味が残る映画とも言えます。

映画は、幼少期の石川を知る人々のインタビュー音声で始まります。従来の実録物にはなかったアプローチであり、この映画の性格を物語っています。闇市や出入りのシーンでは、深作欣二得意の群衆シーンが繰り広げられます。これが実録物がマンネリ化した要因でもあります。渡哲也は、やはり狂犬役は似合いません。若衆の割には代貸クラスにしか見えません。ところが、映画の後半、麻薬中毒になってからの芝居は鬼気迫るものがあります。持病が悪化し、点滴を打ちながらの過酷な撮影だったことが映像にも現れています。それでも、石川力夫の半生を描くなら、別の俳優がよかったと思います。当時の東映のスター・システムでは、渡哲也ありきでしか映画は撮れなかったのでしょう。売出中とは言え、生活感のない多岐川裕美もミスキャストだと思います。

敗戦直後、新宿駅東口には、的屋の尾津組が、都内初にして最大の闇市「新宿マーケット」を開きます。最盛期には1,600店以上が出店していたと聞きます。「光は新宿から」というのが新宿マーケットのキャッチ・フレーズでした。不法占拠した土地での違法な商売だったわけですが、消費者だけでなく、生産者にとっても、まさに希望の光だったのでしょう。都内の主要駅には闇市が乱立しますが、経済復興とともに消えていきました。しかし、その痕跡は、今も各地に見ることができます。アメ横、新橋駅前ビル等が有名ですが、新宿ゴールデン街も新宿マーケットの強制移転から生まれた街です。闇市も、戦後ヤクザも、石川力夫も、皆、戦争が生み出した産物だったと言えます。(写真出典:amazon.co.jp)

2025年7月2日水曜日

ミネラル・ウォーター

20年ほど前、富山へ行ったおりに聞いた料亭旅館の女将の話が印象に残りました。富山の水は日本一です。にもかかわらず若者たちはコンビニでミネラル・ウォーターを買って飲んでいる。実になげかわしい、と言うのです。美味しさでは富山の水に負けるかもしれませんが、日本全国いずこでも、飲める水には事欠きません。かつて、水筒を持って出かけるのは、遠足か登山くらいのものでした。どこへ行っても、水が飲めたからです。それも水筒に入れたのは水道水でした。これほどの国は他にあまり無いと思います。にもかかわらず、昨今では、皆、わざわざミネラル・ウォーターを買って飲むようになりました。逆に言えば、”エスキモーに氷を売る”ような市場で成功を収めたミネラル・ウォーター業界のマーケティングは見事だったと言えます。

日本のミネラル・ウォーターの歴史は、1884年発売の炭酸水「鉱泉平野水」に始まるとされます。英国人科学者が、兵庫県平野の鉱泉が飲料に適していることを発見し、宮内省が炭酸水の御料工場を立ち上げます。払下げを受けた三菱が日本初の炭酸飲料として発売、それを引き継いだ明治屋が1885年に「三ツ矢印平野水」として売り出しています。三矢サイダーの始まりです。ちなみに、三ツ矢とは、源満仲が住吉大社の神託に従い三つ矢羽根の矢を放ち、矢の落ちた多田に城を構えたという伝承に由来します。多田も平野も現在の川西市にあります。ノンガスのミネラル・ウォーターは、1929年、富士急の堀内良平が、身延で湧出する水を「日本ヱビアン」として発売したのが始まりのようです。現在も富士ミネラルウォーターとして販売されています。

ミネラル・ウォーターの一般化は、1970年代に始まっています。日本のウィスキー・メーカーが売上を伸ばすために、和食にも合うとして”水割り”のキャンペーンを開始します。それまで、ウィスキーと言えば、その深い味わいを楽しむためにオン・ザ・ロックで飲むことが当然とされていました。今までも、ウィスキーの水割りはどこか邪道感が残っています。いずれにしても、水割りはキャンペーンの効果によって普及していきました。ただ、そこで問題となったのは、当時の水道水の品質の悪さです。要は、カルキ臭が強く、美味しくなかったわけです。そこでウィスキー・メーカーは、ミネラル・ウォーターの販売を開始することになりました。ただし、あくまでも業務用であり、一般家庭向けではありませんでした。

一般家庭向けミネラル・ウォーターは、1983年に発売されたハウス食品の「六甲のおいしい水」(現在はアサヒ飲料)に始まります。カレー・ルーを販売するハウスが、カレーに合う水として発売しています。いつの頃からか、日本では、カレー・ライスと言えばコップに入った水が付き物でした。恐らく、カレーは辛い、辛いものには水というイメージがそうさせたのだと思います。実際には、辛いものを食べて水を飲むと辛さが口中に広がるだけなのですが。かつて、大衆食堂等でカレー・ライスを注文すると、スプーンが水のコップに入れられて出てきたものです。スプーンがコップに入っていない場合でも、一度、水につけてから使うおじさんたちが多かったように記憶します。ところが、口が肥えてくると、ここでもカルキ臭い水道水が問題とされたわけです。

猛暑や水質問題等を背景に、ミネラル・ウォーターは順調に普及していきます。1996年、環境問題から禁止されていた500mlのペットボトルでの飲料販売が解禁されます。これが市場の急拡大の大きな契機になりました。1980年代以降、急拡大していた飲料の自動販売機も追い風となります。当時、飲料メーカーに聞いた話ですが、売上は自販機の設置台数に応じるとまで言っていました。激しい競争の結果、至る所に自販機が設置されていたものです。ただ、世界最大の自販機大国とも言われる日本ですが、2000年をピークに台数は大幅に減少しています。そもそも設置台数が過剰だったことに加え、少子化の影響が大きいとされます。ただ、その後も、ミネラル・ウォーターの売上は、災害対策としての備蓄、猛暑の際の熱中症対策などを背景に伸び続けています。(写真出典:asahiinryo.co.jp)