2025年6月30日月曜日

式子内親王

別府八湯の一つ観海寺温泉街は、高台から見下ろす別府湾と温泉街の景色が自慢です。そこに観海禅寺という小さな寺院があり、境内に式子内親王の墓なるものがあります。しかし、歌人としても知られる式子内親王は、1201年、都で病死したことが複数の資料から確認できているようです。 全国には、このように、高名な人の墓が、史実とは一致しない場所にあるという現象がまま見られます。なぜそうなったのかはよく分かりません。想像するに、高名な人に仕えていた人が地方に流れ、雇い主の名をかたったか、あるいは土地の人々が簡便的に雇い主の名で呼ぶようになったのかもしれません。大昔の都と地方の距離感からすれば、あり得る話ではないかと思います。

式子内親王は、1149年、後白河天皇の第3皇女として生まれています。母は高倉三位と呼ばれた藤原成子です。同母兄弟には高倉宮以仁王、異母兄弟には高倉天皇がいます。幼い頃から、賀茂神社の斎宮を務め、新古今和歌集はじめ多くの勅撰和歌集、あるいは百人一首にその歌を残す歌人としても知られます。内親王は、高名な歌人であると同時に、その私生活に関しても、いくつかのエピソードでよく知られています。最も有名なのは、金春禅竹が能楽「定家」に描いた藤原定家との忍ぶ恋なのでしょう。同曲にも登場しますが、つる性常緑低木である定家葛の名の由来も不思議な話です。定家葛という名称は、俗称ではなく正式な和名です。死後も内親王を忘れられない定家が葛に生まれ変わって彼女の墓にからみついたというのです。

二人の恋愛関係に関する確たる証拠はありません。式子内親王は、和歌を藤原俊成に師事しています。俊成の次男が定家です。定家が内親王家に出入りしていたことは、彼の日記からも明らかです。忍ぶ恋とは、後世の人たちが、歌や日記から膨らませた妄想とも言われます。実は、式子内親王と慈円との恋愛という話も有名です。慈円は、摂政関白・藤原忠通の子であり、天台座主として、歌人として、あるいは「愚管抄」の作者として知られます。やはり二人の関係を示す証跡はないものの、二人の歌から読み取れるというわけです。さらに、式子内親王は浄土宗の開祖である法然に心を寄せていたという説もあるようです。後白河天皇の娘、独身、資産家、歌人とくれば、超がつくほどのセレブリティであり、浮名が絶えないとしても不思議はないと思います。

内親王とは天皇の直系女子を指します。かつて、内親王は、臣下の者に嫁ぐことなどあり得ず、嫁ぐとすれば天皇か皇太子のみでした。従って、ほとんどの内親王は独身のまま生涯を終えるか仏門に入りました。また、内親王は、天皇家一族から遺産を相続し、多くの荘園を持つ資産家でもあったようです。天皇家としては、一代限りの資産分与なので財産が外に流出する恐れがなかったわけです。内親王は、庶民が様々な妄想をかき立てずにはいられないセレブだったのでしょう。例え、実際に臣下と恋愛関係になったとしても、超国家機密扱いであり、文献など残るわけもありません。ましてや、神に仕える斎王という立場になれば、なおのことです。残された和歌が証拠だという説も多いのですが、現代人の感性で理解するのはどうかと思います。一流の歌人ともなれば、恋愛の歌など、事実の裏打ちなどなくても巧みに詠むのではないでしょうか。

式子内親王が生きたのは、父である後白河天皇が巻き起こした激動の時代です。浮き沈みの激しかった父親の影響を相当に受けていたはずですが、内親王に関しては、和歌と忍ぶ恋の話だけが知られています。女性ゆえ記録が少ないのかもしれません。事件と言えば、身を寄せていた八条院の主である暲子内親王とその姫宮に対する呪詛の嫌疑をかけられています。八条院を出ざるを得なくなった式子内親王は、そのまま出家しています。 亡き後白河院からお告げがあったとする橘兼仲夫婦の妖言事件に連座し、流刑寸前になったこともあるようです。どうも、父親に似て、お淑やかなばかりの内親王ではなかったように思えます。事件の都度、内親王に仕える者が身替りとして罰を受け、流刑になっていたとしても不思議はありません。そのうちの一人が別府に流れ着き、観海禅寺に身を寄せていたのかもしれません。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2025年6月28日土曜日

梁盤秘抄#37 : Chapter One :Latin America

アルバム名:Chapter One: Latin America (1973)                                 アーティスト:Gato Barbieri

アルゼンチン出身のテナー・サックス奏者ガトー・バルビエリは、1960年代、ローマやNYを拠点に、フリー・ジャズを演奏していました。ところが、1970年代に入ると、自らのルーツであるラテン音楽を取り入れた演奏スタイルに変わっていきます。彼の名前が世界中に知られるきっかけとなったのは、ベルナルド・ベルトルッチ監督の話題作「ラスト・タンゴ・イン・パリ」(1972)の音楽を担当したことでした。メランコリックなタンゴであるテーマ曲は大ヒットし、グラミー賞も獲得しました。以降、ジャズ・ファンの多くは、彼をイージー・リスニング系のジャズ奏者と捉え、軽く見る傾向が生まれました。しかし、必ずしも、それだけではなかったように思います。

いわゆるラテン・ジャズは、ほぼほぼアフロ・キューバン・ジャズを指します。キューバ発祥の強いリズムとコンガやボンゴといったパーカッションを使ったジャズです。ガトー・バルビエリの音楽は、タンゴやフォークロアをベースとしたジャズであり、まったくの別物です。アストル・ピアソラの”リベルタンゴ”は、タンゴではないタンゴとも呼ばれます。ガトー・バルビエリの場合、タンゴのリズムを用いていない場合でも、そのフリー・ジャズ的なブローのなかにメランコリックなタンゴ・テイストを感じます。やはり、タンゴではないタンゴといえるかもしれません。しかし、1970年代後半からは、明らかにポップな演奏へと変わっていきました。1976年には、カルロス・サンタナの”Europa”をカバーしてヒットさせています。

ガトー・バルビエリが選択したタンゴやフォークロア路線からすれば、ポップ化は当然の成り行きだったようにも思います。それだけに、1970年代前半のフリー・ジャズとアルゼンチン音楽の融合という試みは新鮮であり、貴重だったと思います。1971年にスイスのモントルー・ジャズ・フェスティバルで録音された「El Pampero」のなかの一曲「Mi Buenos Aires Querido(わが懐かしのブエノスアイレス)」は、その典型的演奏だったと思います。この曲は、1930年代にヒットしたスタンダードです。国外にいるアルゼンチン人がブエノスアイレスを懐かしむという曲ですが、NYで長くフリー・ジャズの活動をしていたガトー・バルビエリの心情、その後の音楽的指向を端的に表した演奏だったと思います。

ガトー・バルビエリは、ジョン・コルトレーンを崇拝し、追随していました。この頃のガトー・バルビエリの演奏は、コルトレーンの「クル・セ・ママ」の影響下にあったように思います。ラスト・タンゴ・イン・パリを経て、Chapter Oneにたどりつくと、クル・セ・ママを超えた独自の境地が展開されます。このアルバムがヒットした理由はそこにあると思います。もはやジャズではないとの批判もありました。確かにオーセンティックなモダン・ジャズとは大いにかけ離れていますが、ジャズの新しい地平線を見せてくれていたとは思うわけです。1972年には、チック・コリアが大ヒット作となった「リターン・トゥ・フォーエバー」をリリースしています。時代は、新天地を求めてフュージョンの世界に入っていたわけです。ガトー・バルビエリの音楽も、幅広に言えば、フュージョンの一種だったのでしょう。(写真出典:music.apple.com)

2025年6月26日木曜日

毒婦

Netflix製作のスペイン映画「ヴュ-ダ・ネグロ」 (原題:La viuda negra、英題:A Widow's Game)を観ました。2017年、バレンシアで発生した事件をほぼ忠実に再現した映画です。俳優たちはなかなかの熱演でしたが、脚本が残念な出来であり、映画としては評価できるような代物ではありませんでした。それでも実際に起きた事件が興味深いものだったので、飽きずに観ました。宗教的に厳格な家庭に育ったマへは、性的に奔放な女性になります。男性関係を隠して結婚したマへは、夫に浮気がバレ、浮気相手の一人である真面目な中年男をそそのかして、夫を殺害します。手がかりの薄い事件でしたが、バレンシア警察は盗聴によって事件をあばき、二人を逮捕します。マへの嘘で固めた人生が興味深く、主演女優の演技も見事でした。

原題は、スペイン語で黒い蜘蛛を意味します。内容にピッタリ合ういいタイトルだと思います。ただ、19世紀にイェレミアス・ゴットヘルフが書いた小説「黒い蜘蛛」があるので、止むなくこの邦題や英題が決まったのでしょう。映画を観ていて、思い出したのが”毒婦”という言葉です。毒婦と言えば高橋お伝、高橋お伝と言えば毒婦ですが、若い人たちはまったく知らないと思います。高橋お伝が殺人を犯したのは明治初期のことです。読み物まがいの新聞報道が過熱し、仮名垣魯文の小説はじめ、歌舞伎、浪曲のテーマとなり、映画も幾本か撮られています。私ですら名前を知っているくらいですから、百年経っても有名だったわけです。ただ、名前は知っていても、有名になった背景までは考えたこともありませんでした。

高橋お伝は、群馬県みなかみ町の生まれ。同郷の者と結婚し、ハンセン氏病を罹患した夫ともに横浜に出ます。ただ、看病の甲斐もなく夫は病死、以降、新富町で男と同棲します。お伝には借金があり、その返済を迫られます。知人の古着屋に用立てを頼むと、一晩付き合ってくれたら、貸さぬでもない、と言われます。背に腹は代えられないお伝は一夜を共にしますが、古着屋は金を出そうとしません。怒ったお伝は古着屋を殺害し、金を奪います。現場には、姉の仇を討ったという書き置きが残されていました。お伝は、ほどなく逮捕されますが、姉の仇を討った、古着屋が自殺したなどと虚偽の供述します。しかし、物的証拠によって犯行が明らかになり、1879年、斬首刑に処されています。ちなみに、斬首刑は、1882年まで行われていました。

もちろん、陰惨な事件ではありますが、世の中を騒がせ、後世まで語り伝えられるほどの事件とは思えません。大きな反響を呼ぶことになった最大の要因は、新聞の存在だったのではないかと思います。江戸期にも、木版のかわら版が人気を博していたわけですが、明治になると活版印刷機が導入され、1870年には、日本初の日刊紙「横浜毎日新聞」が発刊されています。新聞は、ほどなく政治を論じる“大新聞”と娯楽を主とする”小新聞”に分化します。読売や朝日も小新聞の系譜と言えます。発刊まもない小新聞にとって、高橋お伝は、格好のネタとなったわけです。かわら版さながらの扇情的な記事が踊り、憶測も含めた報道がエスカレートしていったものと思われます。高橋お伝に関する報道は、今に続く日本のマスコミの本質を形成したと言えるかもしれません。

実態を超えて社会現象化した高橋お伝の事件ですが、マスコミが煽ったというだけでなく、庶民の心情に訴えるものもあったのではないかと思います。明治初期、新政府は近代化を急ぎますが、一方で、激変する社会に翻弄された庶民の戸惑いと気苦労は半端なかったと思います。読み物風の新聞記事は、いい憂さ晴らしになった面もあるのでしょう。そして、それ以上に、庶民は、お伝に我が身を見る思いがあったのではないかと思うのです。お伝は、毒婦として、多淫・多情・強欲と散々に批判されましたが、都市に流れ込み、都市に飲み込まれてしまった田舎者という庶民の典型でもあったわけです。加えて、庶民は、明治維新による混乱とストレスに翻弄される我が身を重ねていたのではないでしょうか。まるっきり他人事というわけでもなかったわけです。(写真出典:meiji.bakumatsu.org)

2025年6月24日火曜日

ミールス

麹町の「純印度料理 アジャンタ」は、何を食べても美味しい名店です。チャンドラ・ボースのもとで、兄とともにインド独立運動に参加していたジャヤ・ムールティーが、1957年に阿佐ヶ谷に開いたのがアジャンタの始まりでした。1949年開業のナイル・レストランの初代ナイルさんも、ビハリ・ボースとともにインド独立運動を戦った闘士でした。インド独立運動が日本にインド料理を広めたというわけです。アジャンタは、1961年、九段下に移転します。当時、南インド料理と銘打っていたのアジャンタだけだったと思います。美味しいのですが、とにかく辛いという印象でした。1985年には現在の麹町へと移転。以降、辛さは角がとれていったように思います。こっちの舌が慣れてきたせいかもしれませんが。

インド料理店が、どこでも見かけるようになったのは1980年頃からではないかと思います。当時は北インド系がメインでした。南インド系を見かけるようになったのは2000年前後からでした。コンピューターの2000年問題、いわゆるY2Kに備えるために、バンガロールはじめ南インドからIT技術者が多く来日したことがきっかけだったとされます。南インド系料理店が増えると、一気にミールスの知名度が上がります。ミールスは、南インドのワン・プレート・スタイルの定食です。米と複数の副菜で構成され、本格的にはバナナの葉に乗せて提供されます。北インドにもターリーという定食がありますが、小麦文化の北部では米ではなくナンが中心になります。ちなみに、ターリーは大皿という意味ですが、ミールスとは英語のMealが転じた言葉だとされます。

ミールスの主食は米ですが、豆せんべいのパパドが添えられます。パパドは砕いて米の上に散らして食べます。副菜には数種類の料理が並びます。日によって異なったり、選択できる店もありますが、南インドの辛い味噌汁といった風情のサンバールは必ず付いてきます。豆スープのラッサムも添えられることが多いと思います。他の副菜は、様々ですが、おおむね野菜の煮込みが中心です。東京の場合、店によっては、肉系もありますが、南インドでは考えられないはずです。南インドに限らず、インドは、基本的には野菜中心の食事をとる国ですから。また、アチャールも添えられます。アチャールには、実に様々なスタイルがありますが、発酵させたインド風の漬物といったところです。そして、食後の口直しとしてのヨーグルトもミールスの定番です。

また、南インド料理と言えば、忘れてはいけないものにドーサがあります。米と豆の粉に水を加えて練り上げて発酵させた生地を薄く円形に伸ばして焼きます。見た目は巨大なクレープですが、焼き上がると、それを巻いて棒状にして供します。食感も含めて、大好きなのですが、結構、満腹になります。米が主食のミールスと一緒に食べると、明らかに食べ過ぎになります。インドは、フラット・ブレッド文化圏の国ですが、国が大きいだけに、その種類の多さには驚かされます。北インドでは、ナンをはじめ、無発酵のチャパティ、揚げたプーリーなどが代表だと思いますが、南インドになると、ドーサの他に、蒸しパンのようなイドゥリ、クロワッサン的なパロッタなどがあります。ナンに詰め物をしたクルチャの一種チーズ・クルチャは、一時期、東京でも流行しました。

クアラルンプールで食べたドライ・ラクサが気に入り、家で再現を試みています。味のポイントは、えびだしパウダー、カレー粉、ココナツミルク、そしてサンバル・ペーストだと思っています。サンバル・ペーストは、何種類かクアラルンプールのスーパーで仕入れてきました。基本的には、南インドのサンバール・パウダーと同じだと思ったのですが、サンバル・パウダーは見つけられませんでした。名前は似ていますが、どうも別物であり、マレーシアのサンバルにはパウダー・タイプというものは存在しないようです。酸味と辛味は、よく似ているように思いますが、インドのサンバールに対して、マレーシアのサンバルは、エビなども入れて発酵させた辛味調味料であり、より複雑な味がします。(写真出典:macaro-ni.jp)

2025年6月22日日曜日

バトル・オブ・ブリテン

スピットファイア
バトル・オブ・ブリテンは、1940年7月〜1941年5月、英国軍とナチス軍が英国上空で戦った空戦です。ことに、1940年9月から連続57日間続いた夜間空襲に始まり、翌年5月まで続いたロンドンへの大空襲は”ブリッツ”と呼ばれます。43,000人以上の市民が亡くなり、100万戸以上の家屋が破壊されました。延々と続く夜間空襲に、ロンドン市民は恐怖のどん底に突き落とされたわけです。にもかかわらず、ロンドン市民は、毎朝出勤し、店舗も営業を続け、夜にはパブに集い、サッカー、クリケット、鳩レース等を楽しんでいました。驚きとしか言いようのない冷静さです。これぞ不屈のジョンブル精神というわけです。それを否定するつもりはありませんが、それだけでは、なかなか納得できない面もあります。

欧州を席巻したヒトラーの最終目標はソヴィエト制圧でした。ただ、二正面作戦を回避するために、まずは英国を封じ込めておく必要がありました。英国に親近感を持ち、懐柔できると思っていたヒトラーは、和平を提案します。ところが、チャーチルがこれを拒否。ヒトラーは、英国本土上陸作戦を指示せざるを得なくなります。もともと英国侵攻はナチスの計画になく、装備も準備も不十分でした。陸戦に強いナチスでしたが、海軍力は乏しく、Uボートは窮余の策でした。当然、揚陸艦などあるわけもなく、大量のはしけをかき集めたようです。それだけに、上陸前に英国の制空権を確保することは必須でした。準備不足とは言え、当時、無敵と言われたドイツ空軍は、大量の爆撃機をもってドーバーを超え、空軍施設・港湾設備への空爆を開始します。

一方、ダンケルクから奇跡の脱出を果たした英国は、この日が来ることを想定し、レーダー網の敷設、迎撃機の量産などを進めていました。ナチスは、爆撃機の護衛として攻撃力に優れたメッサーシュミットBf109戦闘機を投入、英国側は機動性に優れたスピットファイア戦闘機で迎撃します。当初、撃墜率で上回ったナチスですが、航続距離に難があったメッサーシュミットの優位は薄れていきます。ナチスは、スピットファイアを避けるため、夜間爆撃に移行しますが、そもそも爆撃目標が曖昧であったことに加え、夜間では爆撃の精度が落ち、思うような効果は挙げられなかったようです。ヒトラーはロンドン空爆を禁止していましたが、誤爆が起こり、英国はベルリンへの報復爆撃を行います。これを受けて、9月7日、ナチスは本格的にロンドン爆撃を開始します。

英国では、9月15日が”バトル・オブ・ブリテン・デー”とされています。85年前のこの日、ロンドンは、ナチスの最大規模の攻撃を受けています。しかし、海を越えてきたナチス空軍は、全力で迎え撃った英空軍に蹴散らされます。この日が大きな分岐点となり、ナチスは英国上陸作戦に見切りをつけ、東部戦線、ソヴィエト侵攻へと結集していきます。ただ、後背の脅威である英国を牽制するために、ロンドンへの爆撃、Uボートによる海上補給路への攻撃は継続されました。ロンドンに爆撃が集中したことで、軍施設や工場は温存され、英国は工業生産力でナチスを打ち負かすことができたとも言われます。つまるところ、ナチスの敗因は、計画も準備も装備も不十分なまま、物量と勢いだけで迎撃準備万端の英国に攻め入ったことなのでしょう。

とは言え、ナチスは、英国をギリギリのところまで追い込んだとも言えます。ことに9月15日以前のロンドン市民に、余裕など無かったはずです。さはさりながら冷静さを保っていたわけです。かつて地上の1/4を制した大英帝国のプライドもあれば、世界一の海軍力に自信を持っていたとも言えます。あるいは、勢いのあるナチスと言えども、簡単にドーヴァーを越えることはできないという島国なりの確信があったのかもしれません。また、チャーチルへの信頼も大きな要素だったのでしょう。しかし、最も大きな要因の一つは、ドイツに対する軽蔑、差別意識だったのではないかと思います。戦力を過小評価するということではありません。チャーチルがドイツを「帝国の外である」、つまりローマ帝国外の野蛮人であると言った話は有名です。ちなみに、英語の”German”は、ゲルマン民族に由来します。(写真出典:en.wikipedia.org)

2025年6月20日金曜日

愛宕山

東京都の最高峰は、埼玉県、山梨県にまたがる雲取山、2017mです。日本百名山にも選ばれ、山頂からは、富士山、南アルプス、関東平野が一望できると言います。一方、23区内の最高峰と言えば、港区の愛宕山、25.7mです。東京は、西に武蔵野台地が広がり、東は埋立地を含む平地となっています。愛宕山は、小高い丘としては唯一の存在であり、明治中頃までは東京湾から房総半島まで見渡せたようです。江戸末期、愛宕山から撮ったパノラマ写真が残っていますが、実に見事な見晴らしです。山頂には、愛宕神社があります。1603年、徳川家康が、京都から愛宕権現を勧請し、創建されています。ちなみに、火伏せの神として知られる愛宕神社は、京都の愛宕神社を総本社に900社が存在しているようです。

愛宕神社の鳥居をくぐると、急な石段があります。この86段の石段は「出世の石段」として知られます。その謂れは愛宕権現とは無関係であり、三代将軍・家光に由縁します。1634年、増上寺参拝の帰り道、家光は愛宕山山頂に梅の花が咲いていることに気付きます。誰か、石段を馬にて上がり、梅を手折ってくる者はおらぬか、と随行する家臣に呼びかけます。数名が挑戦しますが、急な石段ゆえ登り切れません。そこへ名乗り出たのが、痩せこけた馬にまたがった讃岐丸亀藩の家臣・曲垣平九郎でした。平九郎は、馬に鞭を当てることなく、馬をいたわりつつ、馬のペースにまかせて石段を登り切り、梅を手折って戻ります。平九郎は馬の名手として知られることになり、大いに出世したとされます。これが出世の石段の謂れです。

曲垣平九郎の出世話は、講談「寛永三馬術」に語られ、大人気となります。馬術の名人三人が登場する長い話ですが、平九郎出世の下りは、梅花の誉れ、出世の春駒等と題され、独立的に語られることも多い話です。平九郎の後、石段を馬で駆け上がることに成功した者は、明治、大正、昭和の三代に一人づつ現れています。神社の境内では、4人の成功者が顕彰されています。また、曲垣平九郎が植えたという梅の木も残っています。2年毎の9月には、出世の石段祭が行われ、神輿が石段を登ります。また、愛宕神社は、江戸名物のほおづき市や羽子板市の発祥の地としても知られています。今はビルに囲まれてひっそりとした佇まいを見せる愛宕神社ですが、往時は、講談の影響もあって、江戸を代表する名所だったようです。

出世の石段で知られた愛宕山が、まったく別な顔を見せたのが、1925年7月のことでした。東京放送局、後のNHKが、日本初となるラジオの本放送を開始したのが愛宕山でした。電波塔を高く建てるにしても、小高い丘の上が好都合だったわけです。放送開始当時の契約受信者数は3,500件だったようです。恐らく都内中心部に集中していたのでしょうから、愛宕山ほど適した場所はなかったわけです。実は、ラジオ放送は、同年3月、芝浦の東京高等工芸学校の図書室から仮放送という形で開始されていました。従って、日本のラジオ放送始まりの地は愛宕山ではなく芝浦とされているようです。それでも、NHKは発祥の地を愛宕山としています。1938年に内幸町へ移転するまで、NHK東京放送局は愛宕山にありました。その跡地にはNHK放送博物館が建っています。

愛宕山は、歴史上の大事件にも登場します。1860年3月3日に起きた桜田門外の変です。大老・井伊直弼が、水戸や薩摩の浪士たちに暗殺された事件です。この日は、雛祭りを祝うために、大名たちが次々と江戸城に参集していました。季節外れの雪が舞うなか、午前9時頃、彦根藩主・井伊直弼は60人ばかりを従えて、桜田門に到着します。見物人に紛れていた浪士18人が襲いかかり、わずか数分で、井伊直弼は斬首されます。桜田門外の変を機に、日本は、幕末の混乱、そして大政奉還へと大きく動いていくことになります。襲撃に参加した浪士たちは、前夜、品川宿・相模屋に集まり訣別の酒宴を行い、分宿します。そして3月3日早朝、愛宕山に結集し、桜田門へと向かっています。愛宕神社境内には、”桜田烈士愛宕山遺蹟碑”と記された石碑が残ります。(写真出典:thegate12.com)

2025年6月18日水曜日

アンド-2

待望されていたスター・ウォーズ「アンド-(Andor、邦題キャシアン・アンド-)」のシーズン2がリリースされました。期待に違わぬ出来になったと思います。アンド-では、銀河帝国の皇帝パルパティーン(ダース・シディアス)が冷酷な独裁者という本性を露わにしていくなかで、抵抗勢力が徐々にネットワーク化し、反乱同盟軍になっていく過程が描かれています。そして、それは辺境の盗賊に過ぎなかったキャシアン・アンド-が、革命家となり、反乱同盟軍に参加するという覚醒の物語でもあります。つまり、キャシアン・アンド-は革命そのものだとも言えます。民主主義に陰りが見え、独裁的なリーダーが幅を利かせる昨今の世界情勢を見れば、アンド-が多くの共感を得ていることは理解できます。

スター・ウォーズは、1977~2019年にかけて、スカイウォーカー・サーガと呼ばれる本編全9話が公開されました。加えて、本編の前日譚、後日譚が、スピンオフ作品として公開されています。うち劇場で公開されたのは、「ローグ・ワン」(2016)と「ハン・ソロ」(2018)でした。ハン・ソロが興行的に不発だったために、以降の実写版スピンオフ作品は、TVシリーズとして製作、公開されています。ただ、2026年、久々に劇場版として「マンダロリアン・アンド・グローグー」が公開予定と発表され、今から盛り上がりを見せています。マンダロリアンは、実写版スピンオフの7シリーズの皮切りであり、2019年から3シーズンが公開されました。本編で語られなかったマンダロリアンの世界観、そしてグローグーの愛らしさが人気を高めた理由なのでしょう。

マンダロリアンとボバ・フェットに登場したグローグーは、ヨーダと同じ種族の幼児であり、ベイビー・ヨーダとも呼ばれます。未熟ながら強いフォースを持っています。スピンオフ系では最も人気のあるキャラクターだと思います。人気はグローグーに負けるとしても、スピンオフ系のなかで最も優れた作品はアンドーだと思います。スター・ウォーズ第1作となった「エピソード4/新たなる希望」は、ルーク・スカイウォーカーが、入手した設計図をもとに、反乱軍とともに銀河帝国のデス・スターを破壊するまでが描かれています。ローグ・ワンは、ジン・アーソとキャシアン・アンド-が命を懸けてデス・スターの設計図を盗むまでの物語であり、アンド-は、さらにその前日譚として、キャシアン・アンド-が革命家になっていく過程が語られます。

アンド-の魅力は、キャシアン・アンド-の地味で人間臭いキャラクター設定にあるのではないかと思います。スター・ウォーズに登場する人物たちは、当然のことながら、エッジの効いた、いわば漫画的なキャラクターばかりです。そのなかにあって、キャシアン・アンド-は、まるでLAを舞台とする警察ものの主人公のようでもあります。運動能力も高く、飲込みも早いのですが、フォースにはまったく無縁。素っ気ない見かけですが根はやさしく、現代人のように悩み、人を愛します。アンド-という作品が持つ政治的な今日性ゆえに、このようなキャラクター設定が行われ、派手さには欠けるディエゴ・ルナがキャスティングされたのでしょう。アンド-は、その政治性の高さにおいて、シリーズ中、最もユニークな作品かもしれません。

キャシアン・アンド-は、ローグ・ワンのラストで壮絶な最期を遂げています。これもキャシアン・アンド-らしくていいと思います。死んだので、これ以上、キャシアン・アンド-を主人公とする作品が作られることはないと思われます。異色作アンド-は、それでよいのだと思います。余談ですが、ジョージ・ルーカスが黒澤明ファンであることから、スター・ウォーズでは、結構、日本の文化や言葉が使われています。アンド-も、実は“安藤”なのではないかと思い、調べてみましたが、よく分かりませんでした。もし、安藤にインスパイアされたのだとすれば、どこの安藤なのか気になるところです。少なくとも安藤百福ではないと思うのですが。(写真出典:imdb.com)

2025年6月16日月曜日

冷夏

北山崎のやませ
ここのところ冷夏という言葉を聞いていません。さらに、冷害に至っては、耳にすることすら希になりました。冷夏は2014年以来途絶えており、記録的な冷夏としては1993年までさかのぼるようです。その年、日照不足と長雨から稲作は大打撃を受け、米不足は”平成の米騒動”と呼ばれるパニックを引き起こします。店頭から米が消えるという事態を受けて、政府は備蓄米の全て23万tを放出しますが焼け石に水であり、タイ、中国、アメリカから259万tを緊急輸入します。輸出したタイ国内も米不足に陥り、米価が高騰したと言います。ただ、ブランド米指向が高まっていた国内では、輸入米が思ったようには売れず、国産米との抱き合わせ販売が横行するなどの問題も起こりました。

1993年冷夏の最大の原因は、1991年に起きたフィリピンのピナツボ山の大噴火だと言われます。20世紀最大の噴火であるピナツボ山大噴火は、大量の大気エアロゾル粒子を成層圏にまで吹き上げました。その後1年をかけて拡散したエアロゾルは、成層圏に硫酸エアロゾル層を形成し、地球全体を覆うことになります。結果、太陽光が遮られ、地球の気温は0.5度押し下げられました。冷夏の主な原因は火山だったとしても、米騒動の背景には人為的要素もあったようです。バブル期を通じて、消費者のブランド米指向が高まり、寒さには弱くても高く売れる品種への植付転換が進んでいたようです。また、政府の減反政策によって専業農家が減り、丁寧な米作りがされなくなっていたとも言われます。そこへ冷夏が襲ってきたわけです。

昨今、TVは、連日、米の価格、政府の備蓄米に関するニュースを流しています。令和の米騒動といったところなのでしょう。昨年の天候不順が価格高騰を招き、転売目的の買い占めが横行したことで米不足が生じました。ついには政府も備蓄米を放出するに至りました。備蓄米を放出したにも関わらず、消費者の手元にはなかなか届かず、米の価格も下がらなかったことから流通経路が批判されることになりました。備蓄米放出が入札方式だったことにより、価格への影響が弱まり、9割をJAが入札したことによって流通のスピードも遅くなったと指摘されています。小泉農水大臣が随意契約方式を打ち出し、評価されていますが、入札方式を選択した自民党の体質、JAの存在意義も検証されるべきだとは思います。また、転売に関する規制も強化されるべきでしょう。

備蓄米放出に関連し、その味も話題になっています。新米とは大いに異なるとは思いますが、貯蔵技術が進んだ昨今では、通常、小売店で買っている米と大差なのではないかと思います。昔の農家は新米を食べなかったという話を聞いたことがあります。農家は、飢饉に備えて自家用の米を1年分くらい備蓄してあり、新米を収穫すると、それを備蓄に回し、前の年の備蓄米から消費していったというのです。先入れ先出し方式です。幾度となく冷害に苦しめられてきた歴史のなかで生まれた知恵なのでしょう。気候変動の激しい時代にあって、この方式を国全体で採用できないものかと思います。一部、ブランド米の新米などは高価で取引される市場があってもいいのですが、全体として先入れ先出し体制を運用できれば、供給も価格も安定化できるのではないでしょうか。

北日本の太平洋沿岸には「やませ」という言葉があります。やませは、春から夏にかけて吹く冷たい北東風のことです。張り出したオホーツク海高気圧が、親潮の上を通ることで冷やされ、やませが発生するとされます。やませがもたらす冷害は、東北地方に飢饉をもたらし、幾度か都市部の米騒動の原因にもなったと聞きます。寒さに強い稲や栽培方法の開発によって、やませによる冷害は克服されてきたようですが、近年では、海水温の上昇によって、やませそのものの発生が減っているとも聞きます。ちなみに、山を越えたやませは日本海側にフェーン現象をもたらします。かつて北海道は、その冷寒な気候ゆえ、稲作不毛の地、あるいは道産の米は不味いと言われていました。近年、品種改良が進み、北海道産の米の評価は高まってきました。それも、多少は地球温暖化が関係しているのかもしれません。(写真出典:vill.tanohata.iwate.jp)

2025年6月14日土曜日

「デビルズ・バス」

監督: ヴェロニカ・フランツ/セヴェリン・フィアラ  2024年オーストリア・ドイツ

☆☆☆

18世紀の中欧に関する民俗学的、宗教的なテーマを、丁寧な時代考証に基づき、絵画的とも言える映像をもって、リアルに再現したという点において、賞賛されるべき作品なのでしょう。ただ、ドラマとしてのポテンシャルは、決して高くありません。そして、最悪なのは本作をバリバリのホラー映画としてプロモートした配給会社の浅ましさです。ユニークなアプローチですが、そもそもホラー映画であることは間違いないのでしょう。娯楽性に乏しいテーマの映画を売り込む難しさも理解できます。ただ、それをありきたりなホラー映画として売り込むことは如何なものかと思います。訳の分からないタイトルも噴飯ものです。もっとも、ヴェロニカ・フランツとセヴェリン・フィアラのコンビは、ホラー映画で実績があり、評価もされているようです。

メイン・プロットは、17~18世紀の欧州で頻発したという代理自殺(suicide by proxy)です。多くの宗教は自殺を戒めています。特に一神教にあっては、人の命は神が定めるものであって、人間が自ら判断することは神の冒涜だとされました。本作でも、伏線として、自殺した農夫が埋葬を拒絶され、野ざらしにされるシーンが登場します。かつての中欧にあって、この世をはかなんで自らの命を絶ちたいと思った人たちは、殺人を犯し、それを教会で告解し、そして公開処刑されることで救われると信じたようです。代理自殺に関しては、数百件に及ぶ記録が残り、研究も行われています。本作も、18世紀、オーストリア北部で実際に起きた代理自殺事件に基づき構成されているようです。

代理自殺を巡る議論としては、自殺を忌まわしいものとする宗教観に加え、告解という不思議な仕組みがポイントになります。告解は、自らが犯した罪を聖職者に告白することで、神のゆるしを得るという儀式です。ゆるしの秘跡とも呼ばれ、カソリックにおいては”7つのサクラメント(秘跡)”の一つとされます。日本では、しばしば懺悔とも呼ばれますが、これは正しくありません。懺悔は、仏教用語であり、罪を告白することで自ら悔い改めるという意味です。なお、プロテスタントでは、洗礼と聖餐だけがサクラメントとされています。聖書に忠実なプロテスタントは、他のサクラメントを現世御利益主義であり、迷信を生むものとして否定しています。告解は、教義ではなく、教会が信者を獲得し、つなぎとめるために発明したものなのでしょう。

代理自殺にともなって行われた殺人は、サクラメントが生んだ悲劇と言えるのかもしれません。ここを深掘りすれば、映画としては、より深く、より面白くなったと思います。ただし、それは、ダイレクトに、カソリック批判、教会批判、バチカン批判になるわけです。ドイツ語圏は、プロテスタントを生んだ土地柄ではありますが、ドイツにはプロテスタントとほぼ同数のカソリック教徒がおり、オーストリアでは過半数に及ぶようです。代理自殺の宗教的背景を深掘りすることなく、民俗学的興味に留め、ホラー的に扱うことが無難なアプローチだったのでしょう。同じキリスト教徒ながら、ユグノー戦争、三十年戦争はじめ血みどろの宗教戦争を戦ってきた国々ですから当然かもしれません。しかも、宗教戦争は、決して過去の話でもありません。

この映画が、プロテスタントの国で、かつ福音派が幅を利かせるアメリカで製作されたとすれば、随分と違った映画になっていたことでしょう。作中、気になるシーンがありました。映画の前半と後半に、主人公が告解のために教会へ行くシーンが挿入されます。深い霧の中を石造りの教会の門へ向かう映像は、見事に絵画的です。しかし、その教会は、どう見ても城塞にしか見えません。庶民を圧迫することにおいて、カソリック教会と領主層は同じだ、という製作陣の主張を感じさせます。カソリックに気を使いながら製作した映画だとは思いますが、やはり製作陣はプロテスタントなんだ、と思わせるシーンでした。(写真出典:klockworx.com)

2025年6月12日木曜日

レモネード・スタンド

NYにいた頃、早春には制服姿のガールスカウトがクッキーを売りに来たものです。活動資金を集めるための伝統行事であり、世界中で行われています。もちろん、買ってあげていましたが、味はまったく覚えていません。ガールスカウト・クッキーは、子供たちが焼いているのではなく、公認を受けたベーカリーの製品です。特徴のあるクッキーではなく、ごく当たり前のクッキー なので印象に残っていないのでしょう。ガールスカウト・クッキーは、資金集めだけではなく、少女たちに計画性、チームワーク、組織力、コミュニケーション、目標設定、そして金融リテラシーを教えることが目的としています。販売量に応じたインセンティブも設けられているようです。といってもバッジやぬいぐるみ等であり、現金ではありません。

スカウトは、英国で生まれた世界的な運動ですが、ガールスカウト・クッキーという発想はアメリカっぽいなと思います。アメリカの夏の風物詩にレモネード・スタンドがあります。子供たちが、自宅のガレージ前などで、自分たちで作ったレモネードを売るわけです。大人たちが買うのですが、何か理由を付けてチップをあげることも定番です。可愛らしいベンチャー・ビジネスに大人たちが付き合っているのは、それが社会的に重要な教育と認識されているからです。子供たちは、レモネード・スタンドを通じて、ビジネスの基本を体験し、金融リテラシーを学び、起業家精神を身につけるわけです。ピューリタンの国アメリカでは、職業も、そこであげる利益も神の御心に沿うものとして尊重されます。カルヴァン派が産業革命を起こしたとされる所以でもありす。

思えば、日本には、そこまで社会的に認知された子供たちのビジネスは存在しません。強いて言えば、高校や大学の学園祭で見かける模擬店くらいでしょうか。ビジネス的な要素だけを取り出してみれば、レモネード・スタンドと大差ないように思います。ただ、その本質には雲泥の差があります。年齢的な違いも大きいとは思いますが、それ以上に、レモネード・スタンドは小さいながらも利潤を追求するビジネスそのものであり、模擬店は皆で楽しむためのお祭り騒ぎに過ぎません。日本の場合、学生の本分は学業とされ、世俗とは一線を画す傾向が強いように思います。要するに、利潤追求が宗教的に祝福されるピューリタンの世界と、世俗から離脱することを良しとする出家宗教としての仏教との違いなのではないでしょうか。

日本では、2020年度から小中学校での金融教育が始まり、2024年度から高校では義務化されました。金融リテラシー獲得が目的とされます。結構なことだと思います。金融庁は、 家計管理、 生活設計、 金融・経済知識や適切な金融商品の選択、 外部の知見の適切な活用、という4分野を金融リテラシーと定義しています。そのとおりだと思います。現代社会でより良い生活を送るために、金融知識はあった方が良いとは思います。ただ、学問化することの弊害もあります。例えば、技能である英語を学問化したことで、日本人の英語力は悲惨なことになっています。つまり、知識を詰め込み、試験を行ったところで、身に付くというわけではありません。知識や論理的思考は学問を通じて得られますが、生活の術や知恵は実践によって得られるものではないでしょうか。

ガールスカウトと言えばクッキーしか思いつきませんが、ボーイスカウトはキャンプとロープの結び方というイメージがあります。過日、会社で同期だった沖縄の友人から驚くべき話を聞きました。小学生の頃、ボーイスカウトに参加しており、そこでライフルを使った実弾射撃の訓練を受けたというのです。思わず、ウソだろ、と叫んでしまいました。調べてみると、アメリカのボーイスカウトでは、ごく当たり前のトレーニングらしいのです。当時の沖縄は、アメリカ統治下ですから、射撃訓練も理解できる話です。ガールスカウト・クッキーやレモネード・スタンドによる実践教育は素晴らしいと思うのですが、狩猟目的であったとしても、さすがに銃の実践訓練は理解を超えてます。それがアメリカの銃社会という問題につながっていなければいいのですが。(写真出典:denverpost.com)

2025年6月10日火曜日

「国宝」

監督:李相日     原作:吉田修一   2025年日本

☆☆☆+

まずは、歌舞伎界を舞台とする一代記など、よくぞ映画化したものだと感心させられます。いかに名手・李相日とは言え、極めてハードルの高い挑戦だったと思います。まずは、俳優たちが短期間で一定レベル以上の芸をものにする必要があります。厳しい稽古を何年も重ねたうえで、はじめて舞台に立てるという世界です。一流の俳優は、とてもセンスの良い人たちだとは思いますが、中途半端な芸ではごまかせない本作への出演は、かなり難しかったはずです。また、歌舞伎は、俳優以外にも唄方、三味線方、鳴物はじめ、かなりの人数が揃って舞台が成立します。その大人数が乗る本格的な舞台も必要となります。歌舞伎界の全面協力がなければ本作は成立し得ないということになります。

また、本作が一代記であること、舞台上の舞や芝居を見せる必要があることから、かなり長尺な映画にならざる得ないという課題もあります。本作の上映時間は3時間近くなりますが、それでも、十分ではなかったと思います。それをどうさばくかということになりますが、ここはまさに監督の腕の見せ所です。李相日は、流れるようなカット割りと効果的な音楽を用いて映画をまとめています。クリストファー・ノーランの「オッペンハイマー」を思わせるようなさばき方になっていると思います。つまり、自然主義的な演出、あるいは演劇的な芝居を避け、印象的なショットをメリハリをつけて重ねていく手法です。李相日が「悪人」(2010)で見せた演出とは、全くの逆のスタイルであり、ややもすればイメージ映像的になる懸念があります。

ドラマを構成するためには、表情や所作だけで多くを語る演技が求められます。主演の吉沢亮は、芸の習得もさることながら、この点においても見事なものだったと思います。センスの良さを感じました。また、明らかに、梨園で育った寺嶋しのぶの演技、舞踏家の田中泯の存在感が、この映画を引き締めていると思います。一方、李相日映画の常連と言える渡辺謙の起用は微妙です。その手堅い演技は監督を安心させるのでしょうが、歌舞伎役者としてのリアリティからはかけ離れています。また、見上愛は、短時間ながら存在感のある演技をみせていたと思います。ほとんど日本映画を見ないものですから、吉沢亮も、見上愛も、この映画で初めて知りました。なかなかいい俳優もいるもんだと感心しました。

この手の映画では、映画としての広がりを確保するうえで、抜けのあるロングショットの挿入も重要になります。過去の作品からして監督はそれをよく心得ていると思います。ただ、その点が巧みだったオッペンハイマーと比べると、歌舞伎界という設定や時間的制約もあってか、多少、ご苦労されている印象がありました。ショット同様、ドラマ性の限界をカバーする音楽の使い方も重要な要素になります。原摩利彦という人の音楽は見事だったと思います。長唄や囃子にかぶせて違和感なく、押しつけがましくもなく、かつ十分にドラマ性をサポートするという難題を十分にこなしていたと思います。アンビエントやエレクトロニカで活躍する音楽家のようですが、そうしたバックグラウンドが十分に活かされていると思いました。

本作を観て、陳凱歌の傑作「さらば、わが愛/覇王別姫」(1993)を思い出した人も多いはずです。舞台は京劇界でしたが、テーマはあくまでも中国現代史でした。本作には政治的な重さはありません。原作は、2019年に出版された吉田修一の同名小説です。梨園の血縁社会をモティーフとしますが、日本の社会や文化を深掘りしているわけでもなく、あくまでもエンターテイメントと理解すべきなのでしょう。ちなみに、李相日の「悪人」、「怒り」(2016)も吉田修一原作です。初めて李相日の巧みさに驚いたのは「フラガール」でした。大ヒットを記録し、キネマ旬報の年間ベスト・ワンにも選ばれました。ジェイク・シマブクロの音楽も印象的でした。思えば、フラガールでも、フラ未経験の出演者たちが特訓を受けて、見事な踊りを披露していました。ただ、フラガールは素人がダンサーになる話であり、今回は至芸の世界を描いています。まったくレベルが異なります。(写真出典:eiga.com)

2025年6月8日日曜日

会津五街道

行きたいと思いながら機会がなかった大内宿へ行ってきました。江戸からは会津西街道、会津側からは下野街道と呼ばれた街道の宿場町です。江戸時代さながらに茅葺きの古民家が並ぶ町並みで知られています。現在、古民家は、土産物屋、蕎麦屋として利用され、多くの観光客が訪れています。山間の少し開けた土地であることから大内と命名されたものと思いますが、平家の追っ手を逃れてきた高倉宮以仁王がこの地にたどり着き、大内裏にちなんで命名したという言い伝えがあるようです。しかし、史実として、平家に反旗を翻して挙兵した以仁王は、南山城で討たれています。村には鎮守として高倉神社も祀られていますが、これは明治になって観請されたものです。

江戸期の会津は、東北諸藩ににらみを利かせる幕府の要衝として重視され、会津松平家(保科家)が、23万石、実高40万石を治めています。会津は、戦国時代から領主の変遷が激しく、蘆名、伊達、上杉、蒲生、加藤、そして保科と変わります。保科家の時代が始まると同時に、若松から放射状に延びる会津五街道も整備されています。南東へは白河とつなぐ白河街道。東は二本松へ向う二本松街道。西は越後へ続く越後街道。北へは米沢と結ぶ米沢街道。そして、南へは下野今市(日光)をめざす下野街道(会津西街道)が整備されます。これによって、奥州街道からは外れていた会津が、東北・関東一円へのアクセスを確保し、徳川家の北の守りとして機能したわけです。もちろん、会津五街道は、会津の産業をも支えることになります。

江戸幕府の五街道とは、日本橋を起点とする東海道、中山道、日光街道、甲州街道に、宇都宮で日光街道から枝分かれする奥州街道を指します。幕府直轄の基幹道路として、伝馬、宿場、一里塚、松林等が整備されます。謀反あれば、江戸から素早く幕府の軍勢を送り込む軍用道路だったわけです。大名の参勤交代も、幕府管理下の五街道を使うことが求められます。しかし、すべての藩を網羅しているわけではないので、中国路、伊勢路、北陸路等々の脇往還も整備されます。中国路などは大動脈ですが、江戸につながっていないので五街道の外ということになります。会津西街道も脇往還として整備された道でした。会津藩はじめ、新発田藩、村上藩、庄内藩、米沢藩などが参勤交代で使っています。家康が眠る日光を通ることにも意味があったのでしょう。

初めて会津を訪れた時に驚いたのは、会津盆地の広さです。盆地の南東に位置する鶴ヶ城に登ると広大な盆地を一望できます。四方を囲む山々もすべて会津藩領であり、上杉家の時代には庄内、佐渡も含めて120万石に達していたとされます。また、石ヶ森はじめ複数の金山もありました。会津藩の石高23万石は、御三家を超えぬよう表面上定められたものであり、実高は水戸藩を超えていたと言われます。また、北の守りという性格から軍事力の増強も盛んに行われ、江戸期には薩摩と並ぶ軍事大国として知られることになります。幕末、薩長が戊辰戦争にこだわったのは、佐幕派、特に会津を壊滅することだったと言われます。無益な血が流れたようにも思いますが、中央集権国家をいち早く樹立させるためには避けて通れない戦いだったのでしょう。

明治になると、会津西街道は付替工事が行われます。街道から外れた大内宿は、その役割を終えています。大内宿には、再建された本陣もありますが、そもそも若松と田島宿の中間にあり、昼食休憩をとる場所に過ぎなかったようです。それが大内宿を半農半宿の宿場にした理由でもあるのでしょう。1683年の日光地震によって、会津西街道は、しばらくの間、街道としての機能を失います。会津藩の参勤交代も白石街道が使われるようになり、大内宿は、一層、半農半宿という性格を強めていったのでしょう。しかし、半農半宿の宿場であったため、街道がその役割を終えた後も、往時の風情を残すことになったのだと思われます。大内宿の名物と言えば、高遠そば、通称ネギそばです。箸ではなく、一本まるごとのネギを使ってそばを食べます。信州の高遠から伝わったとされますが、高遠では既に廃れています。とにかく食べにくいので、廃れて当然とも思います。(写真出典:icotto.jp)

2025年6月6日金曜日

「ガール・ウィズ・ニードル」

監督:マグヌス・フォン・ホーン  2024年デンマーク・ポーランド・スウェーデン

☆☆☆+

(ネタバレ注意)

第1次世界大戦末期から戦後にかけて、コペンハーゲンで実際に起こった事件に基づく作品とのこと。リアリティのある白黒画面、実験的な映像や音楽、印象に残る演技などが、緊張感あふれる映画を構成しています。一見すると、時代と貧困に翻弄された女性を描いたフェミニズム映画のようではあります。ただ、戦争の悲惨、事件の凄惨、社会の前近代性と主人公の近代性、といった要素の多さが、やや消化不良を引き起こしているような印象も受けます。母性の深遠さとフェミニズムを絡めたアプローチは、他のフェミニズム映画には見られないユニークな試みだと思います。ただ、それも、必ずしも分かりやすく表現されているとは言えません。

タイトルである針から見れば、主人公は針子として縫製工場で働いており、前近代的な社会と女性との関係を象徴しています。自らの手で堕胎を試みる際には編物針が使われ、女性が置かれた厳しい立場が象徴されます。私生児を出産する覚悟を決めた主人公は、穏やかに編物をします。これは母性と主人公の近代性を表しているのでしょう。ただ、映画の後半では針が登場しません。英語の針には、怒りや敵意といった意味もあります。デンマーク語は不案内ですが、恐らく同様の比喩的な意味があるのだろうと思います。とすれば、映画後半は、主人公自身が針となって、前近代性を否定する、あるいは母性と近代性を縫い合わせるといった意味合いがあるのではないでしょうか。

 公衆浴場で堕胎を図った主人公は、さる女性に助けられます。菓子店を営むその女性には裏の顔がありました。非公認の養子縁組仲介業です。営利目的の養子縁組仲介は、人身売買として禁止されています。女性は、赤ん坊を連れてきた母親から手数料を取り、養子縁組は行なわずに、赤ん坊を殺害・遺棄していました。これが実際に起こった事件かと思うと、実にゾッとします。正に悪魔の所業ではありますが、事件の背景には様々な状況も見えてきます。望まれずして生を受ける赤ん坊は、いつの世にも存在します。その対応も様々取られてきたわけですが、養子もその一つです。養子縁組は、子供を手放さざるを得ない親、そして子供が欲しい親がいて成立します。そこに仲介者が登場するのは自然の流れだと思います。

物体に力を加えると、弱い部分に圧力が集中します。同様に、戦時下の都市部では、女性が生きづらくなるわけです。冷血な犯罪者である菓子屋の女性は、女手ひとつで娘を育てる寡婦でもあります。彼女も、赤ん坊を手放すしかなかった女性たちと同じく戦争の被害者であると言えるのかもしれません。また、彼女は母性の敵ではありますが、窮地に立った女性たちに救いの手を差し伸べたとも言えます。彼女は、赤ん坊を引き受ける際、母親に必ず「あなたは正しいことをした」と言います。それは自分自身に向かって言っている言葉でもあるのでしょう。もちろん、行ったことは最悪の犯罪ですし、彼女が同情的に描かれているわけでもありません。監督は、母性は女性にとって呪縛でり、ゆえに戦時下の女性は一層厳しい状況に置かれると言っているのかもしれません。

しかし、菓子屋の女性が逮捕された後、主人公が彼女の子供を養女として引き取る際に見せる笑顔は、別のことを語っているようでもあります。凄惨な事件が描かれたホラー映画としては、救いのあるラスト・シーンが必要だったという面もあるのでしょう。同時に、このラスト・シーンは、母性、あるいはヒューマニズムは、フェミニズムの大前提である、という監督のスタンスを表しているようにも思えます。ただ、残念ながら、そのスタンスが明確に打ち出されているわけではありません。いずれにしても、母性とフェミニズムの関係は、とても奥の深い議論であり、フェミニズムの本質に関わる議論だとも思います。娯楽映画ではありますが、そのことを改めて想起させる映画でもりました。(写真出典:eiga.com)

2025年6月4日水曜日

南京豆

過日、伊江島のお土産に”ジーマミーあんだんすー”をいただきました。食べてみたら美味しくてドはまりしました。ジーマミー(地豆)は落花生、あんだんすーはあんだ(油)とみす(味噌)の組合せで、油味噌ということになります。新発見と思って友人に話すと「ピーナッツ味噌だろ。美味しいに決まっているよ」と言われました。買ったことも食べたこともなかったのですが、確かにスーパーでも見かけてはいました。ピーナッツ味噌は、もともと茨城県に古くから伝わる郷土料理だったようです。落花生に、ごま油、味噌、砂糖などをからめたもので、長期保存でき、ご飯に乗せて、お茶請けとして、あるいは酒のつまみにと家庭で重宝されてきたようです。

落花生の原産は、アンデス山脈の東側であり、その栽培が世界中に広がったのは16世紀中頃とされます。日本には18世紀初頭に伝わったようです。かつては南京豆と呼ばれ、植物学上の標準和名もナンキンマメとなっていることから、中国から伝来したとされていたのでしょう。それが落花生と呼ばれるようになったのは、本格的に栽培が始まった明治以降のことだと思われます。ただ、昭和初期に世界中でヒットしたキューバン・ソンの傑作「El manicero」が「南京豆売り」と訳されていることから、戦前までは南京豆という呼び名が一般的だったのでしょう。ちなみに、落花生も地豆も地中で実をつけることから名付けられ、ピーナッツは豆(pea)と木の実(nuts)の合成語です。ただ、落花生は豆であってナッツではありません。

落花生の一般的な食べ方としては、殻を取るにしても残すにしても、炒るか茹でるかといったところでしょう。中華料理では、もう少しバリエーションがあります。加工品になると、さらにバリエーションが増えていきます。大雑把に言えば、ペースト系、粉砕系、コーティング系があるように思います。ペースト系の代表は、なんといってもピーナッツバターです。アメリカでは、国民食と言ってもいいほどです。日本のピーナッツバターは甘いものが多いのですが、アメリカの場合は無糖のものが主流です。その歴史は、意外と浅く、19世紀末、カナダの薬剤師がピーナッツ・ペーストの特許を取り、翌年にはケロッグ社の創業者がピーナッツバターの特許を取得しています。ケロッグは、その栄養価の高さから肉の代替品として売り出したと言います。

ピーナッツバターの消費がアメリカやカナダで多いのは分かりますが、実はアジア各国、特に中国で大量に消費されているようです。料理もさることながら、菓子類に多く使われているようです。中国の菓子類には、ペーストだけではなく粉砕系も多く使われています。クルタレなどがいい例だと思います。コーティング系でなじみ深いのは、一粒ごとに小麦粉の衣をつけて揚げるか焼くかした豆菓子だと思います。実に多様なフレーバーがあります。、海外ではジャパニーズ・ピーナッツとも呼ばれます。他に沖縄のジーマミー豆腐、台湾の花生酥といった加工品もあります。ピーナッツは油分が多いことから、オイルとしても多様な使い方がされています。調味油以外にも、マーガリンや石鹸類の原材料としても知られます。

食品以外のピーナッツと言えば、漫画の”ピーナッツ”、歌手の”ザ・ピーナッツ”、あるいはプランターズ社の”ミスター・ピーナッツ”が思い浮かびます。チャーリー・ブラウンやスヌーピーが活躍する漫画”ピーナッツ”は、1950から2000年まで続き、”一人の人間が語った最も長い物語”とも言われます。なぜタイトルがピーナッツなのか不思議に思っていました。このタイトルは、作者のチャールズ・シュルツではなく編集者の発案でした。当時の人気TV番組で子供たちをピーナッツと呼んでいたことにヒントを得たようです。大人が一切登場しない漫画に相応しいとも思いますが、シュルツは大嫌いだったようです。もともとシュルツが付けたタイトルは、ベタですが”リル・ワールド”でした。ただ、著作権の関係で使えなかったようです。ならば”チャーリー・ブラウンと仲間たち”で良かったのではないかとも思います。(写真出典:shizengurashi.jp)

2025年6月2日月曜日

スリーピー・ホロウ

Sleepy Hollow
Lake Tear of the Clouds(雲の涙湖)は、NY州北部のアディロンダック山地にある小さな湖です。この湖は、そのロマンチックな名前ではなく、ハドソン川の水源としてよく知られています。NY州を南北に流れるハドソン川は、全長500kmを超える大河です。深い渓谷を刻みながらNY州を南に流れ、河口近くではNY州とNJ州の境、マンハッタン島の西側を流れ、大西洋に注ぎます。欧州人に”発見”されたのは16世紀ですが、17世紀初頭に川を探検した英国人ヘンリー・ハドソンにちなんで名付けられました。アメリカのライン川と言う人もいます。言い過ぎだとは思いますが、開拓時代から独立戦争までの歴史を刻んできた川であることは間違いなく、両岸にはウェストポイント陸軍士官学校はじめ古い石造りの建造物も点在します。

河口から60kmばかり上流に、全長4,880mのタッパンジー・ブリッジがあります。その東詰めにウェスト・チェスター郡タリー・タウンがあります。かつてジョン・D・ロックフェラーはじめNYの富裕層が好んで邸宅を構えた土地であり、全米の住みたい街ランキングで第2位という街です。また、世界で最も幽霊が出やすい街としても知られています。それは、この街に永く住んだ作家ワシントン・アーヴィングの短編「スリーピー・ホロウの伝説」に起因します。スリーピー・ホロウは、タリー・タウンに隣接する村です。アーヴィングは、砲撃で首を失ったヘッセン騎兵が夜ごと騎行するという村の伝承を聞き、この作品を書きました。ヘッセン騎兵とは、独立戦争の際、英国軍の主力となったドイツ傭兵のことです。

首のない騎兵は、埋葬されたとされる教会近くで多く目撃されます。騎兵は、夜になると墓場を抜け出し、自分の首を探し求めて馬を駆ります。そして日の出が近づくと墓に戻るわけです。ウェスト・チェスター郡一帯は、アメリカ独立戦争の激戦地の一つであり、今でも、少し掘り返しただけで、当時の砲弾が出てきます。米英双方の多くの兵士が命を落とした土地でもあり、幽霊話には事欠かない土地と言えます。加えて、スリーピー・ホロウ、眠たい窪地という妖しげな名が、幽霊話に油を注いでいる面もあります。「スリーピー・ホロウの伝説」のなかでは、ドイツの祈祷師がこの地に魔法をかけた、あるいはインディアンの老酋長で妖術師だった男が祈祷を行い、その魔力が今に残り、人々は、半ば眠ったような状態に陥りやすいと語られています。

眉唾の話ですが、地名として残るくらいですから、実際に、人々をボーっとさせるような何かの現象はあったのではないかと考えます。磁力異常や何らかのガスの発生等も考えられますが、ハドソン川に近い窪地ということで、気圧や気温の激しい変化が起きやすい土地なのだろうと思います。水温の急激な変化等によりイルカが大量に浜に打ち上げられることがありますが、同じような現象が起こるのかもしれません。恐らく、世界を見渡せば、他にも似たような現象を起こす土地があるのでないかと思います。少なくとも、ハドソン川で川霧が発生したとすれば、スリーピー・ホロウのような窪地には霧が溜まることになるはずです。とりわけ、それが夜霧ならば、幻想的な光景が広がり、首のない騎兵が騎行するには最適な条件になるとも言えます。

アーヴィングの「スリーピー・ホロウの伝説」は、主に英国での見聞を元に書かれた短編小説・随筆集「スケッチ・ブック」に収録された一編です。アーヴィングは、1815年から17年間、イギリスに滞在しており、「スケッチ・ブック」は1820年に出版されています。首のない騎士の元ネタは、実はアイルランド民話とも、ドイツ民話とも言われているようです。アーヴィングが、アメリカに戻って、タリー・タウンに住み始めたのが1836年とされ、1859年に亡くなるまで暮らしました。サニー・サイドと名付けられたアーヴィングの家は、今もタリー・タウンに残っています。アーヴィングは、隣人である海軍提督とも親交があり、彼を”Japanned(日本おたく)”と書き残しているようです。提督の名前は、言うまでもなくマシュー・ペリーです。(写真出典:travelandleisure.com)